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48昭和百年戦後八十年に思う |
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人は言葉によって人間になる |
今年は丁度昭和百年、そして先の大戦が終わって八十年目の節目の年に当たります。個人的には、これも有難いことに88歳、つまり米寿という節目を迎えさせて頂きました。
そこで前回皇室について話をさせて頂いた際、もう一回続きを話させて頂きたいと言ったのですが、その予定を変更して、私がこれまで生きてきて、私が見聞きし感じた日本人の心の歴史のようなものを振り返ってみて、そこから更に、私が常に願い続ける国家の繁栄と安泰につながる心のあり方について考えてみたいと思います。
三重苦の天使と言われたヘレンケラーが、動物から人間になり得たのは、物には名前があると気付いた時からであります。厳密にいえば、飼い犬だって人間の言葉が分かるから、そうとも言い切れないのですが、何にせよ、我々日本人は日本語によって人間になったのであります。これも厳密に言うなら、いっそう人間らしくなったのです。そして日本語によって人間になった以上、我々が人間であることと、日本人であることは密接不可分なのです。そして私は今は、この日本語によって人間になれたことを、ことのほか幸せなことだと感じております。
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日本人であることへの嫌悪感は意図的に培われたもの |
にもかかわらず、日本人である前に人間でありたいとか、日本人としてでなく地球市民として生きていきたいという人がいるとしたら、それは単にグローバリズムからというだけではなく、どこかに日本人であることへの嫌悪感が含まれているような気がします。
それは選択的夫婦別姓制度の制定を主導する人たちの気持ちの底に、日本の家族制度への嫌悪感から、伝統的な家族制度をぶち壊しただけではまだ飽き足らず、核家族をさえも解体して、国民を無国籍な個々人に還元してしまいたいという意図が透けて見えるのにも通じます。
これも旧姓に対する愛着が強すぎて変えたくない人もいるでしょうから一概には言えませが、いずれにせよ、こういう日本嫌いの心情は、全てが自然発生的なものというわけではなく、多くが意図的に仕向けられて培われたものだという自覚は持っておくべきだと思うのです。それは戦争に敗れた時、戦勝国による巧妙な占領政策によって培われたものであります。
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見せかけの自由の裏で、厳しく巧妙な言論統制が行われていた |
どれほどそれが巧妙なものであったか。実感としましては、我々は敗戦によってかえって戦前戦中の重苦しい言論統制や、古臭い、いわゆる「封建的」な考え方から解放され、初めて言論の自由を満喫している気にならされたのであります。
その「自由」の中から、日本人はいわゆる東京裁判の理念や判決をほとんど抵抗なく受け入れ、自らこぞって壮大ないわゆる自虐史観を築き上げたという印象があります。一億総ざんげを唱えた人もいました。
日本人は、とりわけ日本の軍人は、なんとも愚かで無謀で傲慢で残虐で、世界中に、とりわけアジア諸国に大迷惑をかけてしまった。その罪はどれほど償っても償いきれないほどのものだ、だからこれからもう二度と戦争をしてはならない、軍備もダメ、というのが、敗戦後の日本の言論界の基本論調でありました。
少数ながらそれに異を唱える人たちもいました。小林秀雄や福田恆存や林房雄といった人たちです。小林氏や福田氏はそこそこ尊敬されていましたが、「大東亜戦争肯定論」を書いた林氏はかなり馬鹿にされていたように思います。私自身がそうでした。
少し時代を経て三島由紀夫や江藤淳といった人々がそれに続きました。戦勝国の日本弱体化計画に最初に気付いたのは、1980年(昭和55年)頃アメリカの機関で研究を行ったこの江藤氏あたりかららしいです。
江藤氏は、実はアメリカが、見せかけの言論の自由の裏で、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(日本人に罪悪意識を植え付ける戦略)」として、報道機関に対して極秘に徹底的な言論統制をおこない、意に沿わない報道は厳しく禁じていたことを知ったのであります。
その上、八千点近い著作も密かに回収して消し去り、日本人の目に触れないようにしました。それを焚書(ふんしょ)と言いますが、どのような書物が焚書にされたかが、だんだん明らかにされつつあり、とても興味深いのです。
普通、日本の民主化にとって有害な、言わば古い考えの書物が焚書にされたのだろうと思いがちですが、そうではなくて、むしろ日本人にとってはとても有益だが、外国、とりわけ戦勝国にとっては不都合な、知られたくないことが書かれた書物が狙い撃ちにされたのです。日本人であることが誇りに思えるような書物も消し去られました。恐らくそれらに軍国主義を助長するとでも難癖をつけて、日本人から強さや誇りや愛国心を奪い去ろうとしたのでしょう。
それに協力したのが東大の教授をはじめとする特定の政治的立場の人たちでした。膨大な日本語の書物の中から、彼らにとって好ましくない書物を見つけ出せるほどの語学力を持った人がアメリカにそんなに多くいるはずがないので、はっきり言って日本の左翼の人たちを利用したのです。戦前戦中の大統領ルーズベルトがソ連びいきであったせいで、アメリカの政権の中枢には多数ソ連のスパイが入り込んでいて、GHQ(占領軍総司令部)自体がかなり左傾化していたことが、今ではよく知られています。要するにGHQの気に入らない書物は、日本の左翼の人たちの気に入らない書物でもあったのです。
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 教会のシンボル二上山 |
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GHQの撤退後も、左翼支配と自虐思想全盛期が続いた |
焚書にされた書物の中の一つである文豪菊池寛の「大衆明治史」の復刻版というのを読んでみました。戦前か戦中に書かれたものですが、今読んでも十分面白くてためになる内容で、全然古臭さを感じさせません。日清日露戦争の記述などは、当然日本人として誇らしく勇気づけられる部分でもあります。ということは、日本の歴史を全否定したい左翼の人々や日本を弱体化したいGHQにとっては、極めて不都合な内容の本であるということになります。またこれで、焚書の目的が日本の民主化などではなく、弱体化なのだということもはっきりしました。
わざわざ民主化などしてもらわなくても、とっくに民主化していましたし…。
おまけに、ここには北清事変についての記述があります。日清戦争後、北京にある各国の公使館地域が義和団に取り囲まれ、二か月にわたる籠城戦の末、日本軍の柴五郎中佐(当時)の優れた指揮により、ようやく危機を脱したという事変です。危機を脱した途端、ロシア、フランス、ドイツ、イギリス各国の軍隊は、清朝の財宝の猛烈な略奪を行い、中国人に対しても激しい暴行、虐殺を行ったことが書かれているのです。中でも一番ひどかったのがフランスとロシアらしいです。略奪も暴行もしなかったのは日本軍だけでした。
こんなことは西欧諸国やGHQにとって、戦後の日本人に最も知られたくないことであったに違いありません。しかし、どうやってそんなものを見つけ出すのか。たとえ日本語に堪能なGHQの検閲官であっても、無数の書物の中からそんなものを見つけ出すのは容易ではないはずで、結局日本人の検閲協力者に頼らざるを得なかったでしょう。
そういう本の選択も、日本人協力者の裁量に大きく左右されたに違いありません。そんな情景を想像するのはあまり愉快ではありませんが、彼らとて、自分たちのイデオロギーに沿った新しい日本を造るんだという使命感に燃えてやったことなのかもしれません。
GHQの左翼優遇は、その後米ソの対立が激化して、アメリカの政権から左翼思想の人たちが追放されるまで続きました。しかし、日本では左翼の人たちがそのまま言論界を支配し、自虐史観が全盛期を迎えました。自虐史観は自虐思想と言い換えてもいいでしょう。
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自虐思想は自国への愛や誇りばかりか、他国に対する警戒心や批判力まで奪った |
自虐思想に最も欠落しているのが、自国への誇り、自信、愛であり、他国についての実態認識です。極秘の焚書や言論統制によって、自国の良いところや、他国にとって都合の悪いところを徹底的に目隠しされた結果でもあります。
その結果、ひたすら自国を責め、恥じ入るばかりで、他国に対して当然持つべき警戒心や批判力までも無くしてしまい、他国を理想化し、「平和を愛する諸国民の公正に信頼して」自分たちさえ軍隊を持たなければ、戦争をしなければ、世界は平和になる、と本気で思い込む人たちを大量に生み出してしまったのであります。厄介なことに、その中にはかなり頭のいい人たちも含まれていました。その一典型が大江健三郎氏であります。
難解で読みづらい彼の小説をあまり読んだことがありませんが、たまたま奥野健男という文芸評論家が注目して取り上げた「性的人間」というのを読んでみましたら。深読みしなくても単純に面白かったのです。夫婦して面白がった記憶があります。下ネタ話は夫婦間でしかしなかったからです。調べなおしてみたら、1963年(昭和38年)のことでした。
ところが同じころ、新聞のコラムにたびたび載った大江氏のエッセイには困惑しました。今も悪名高い、例の北朝鮮を賛美し自国を恥じる内容の文章にです。或いは他国の軍隊は非難しないが、自衛隊のみを極端に憎み恥じる文章に困惑したのであります。賢いはずの人がなぜあんな国を持ち上げるのかと不思議に思った記憶があるのは、その頃でもすでに北朝鮮の実態を知らせる情報が、雑誌や週刊誌などを通してかなり出回っていたからだと思います。
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北朝鮮帰国事業も自虐思想がもたらした悲劇の典型例 |
北朝鮮が「地上の楽園」であるという宣伝を信じて、在日朝鮮人やその日本人家族の北朝鮮への帰国事業が始まったのは1959年(昭和34年)のことですが、これも改めて調べなおしてみますと、1962年にはもう、それに警告を発する本が、日本国籍を取得した関貴星という元在日朝鮮人によって書かれていました。
関さんは1960年に訪朝使節団の一員として25日間を過ごしましたが、そこで見聞きしたことや経験したことから実態に気付いて驚いたのです。とりわけある時、先に帰鮮して車中に乗り込んで来た青年たちから、寺尾五郎という使節団の一員(私も名前だけは憶えていました)が、あんたの著書のおかげでひどい目に遭った、だまされた、どうしてくれるんだ、となじられるのを見てショックを受けたのであります。
そこで日本に帰国したとき、朝鮮総連の幹部たちに安易な気持ちで渡鮮するのをやめさせるよう訴えたのですが相手にされず、かえって厳しい迫害を受け、村八分にされてしまったそうです。寺尾氏をはじめ他の使節団員達は恐らくほおかむりし通したのでしょう。一つのイデオロギーに取りつかれると真実が見えなくなる、という典型例であります。
帰国事業はその後も1984年(昭和59年)まで続けられ、関さんが警告するまでに約3万人、警告してからも約6万人、合計で9万3千人が帰国していきました。この事業も、こうした自虐思想もしくは左翼思想がもたらした悲劇の典型例であり、大江氏の言説が大きくその後押しをしたであろうことは言うまでも無いでしょう。
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 ウォーキングコース 春 |
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「アーロン収容所」と「坂の上の雲」が転機の先駆け? |
いずれにせよ、それらの弱体化策の効果はまことに顕著で、占領期間が終わった後もなおずっと、日本人から自信や誇りや愛国心を奪い続け、一方では、日本人の外国崇拝、外国妄信の気風を助長してしまいました。
そういう妄信的な外国崇拝、とりわけ西欧崇拝から日本人がやっと一歩抜け出す先駆けとなったのは、私の認識によれば会田雄次の「アーロン収容所」でありました。これは会田氏が敗戦後イギリス軍の捕虜となって収容所で過ごした体験を記したもので、イギリス人のアジア人蔑視の本性が「西欧ヒューマニズムの限界」として描かれています。これも1962年(昭和37年)のことでありました。
それから6年後の1968(昭和43年)年から1972年にかけて、司馬遼太郎の「坂の上の雲」が産経新聞に連載されました。リアルタイムで読んだわけでも、きちんと全部読み通したわけでもないのですが、これが日本人が自虐史観から抜け出す一つのきっかけになったという説に私は賛成です。ずっと後にドラマ化もされましたが、議論抜きで実感の力で、多くの読者や視聴者は、自国に対する自信や誇りや愛を、少しは取り戻したはずであります。
私自身は取り戻すのがもう少し早かったです。前にも一度取り上げたことがある、坂井三郎という戦闘機乗りの「大空のサムライ」という本のおかげです。読んでいるところを知られるのもはばかられるような、時代錯誤に見える本にもかかわらず、事実として、この本によって私は自分の中の愛国心に気付かされたのであります。圧倒的な物量差の中で、零戦という名機を生み出し、善戦した人たちがいてくれたからこそ、生存競争熾烈な国際社会の中で、この国がまだ滅びずに済み、敗れてなお我々には誇り得るものがあるのだと、救われる思いがしたのです。
こんなことを言いますと、お前が宗教家なら、どうして戦争や軍隊そのものをもっと憎んで世界平和のみを祈らないのか、と言われてしまいそうです。もちろん世界平和は祈ります。しかし、空疎な観念論ではなく、あくまで自分の本音・実感を大事にしたいというのが私の信仰なのです。戦争は絶対に嫌だという気持ちを必ずしも空疎とは言いませんが、そんな感情論だけに固執すると、他人も巻き込んで身を滅ぼし、国も滅ぼしかねないから困るのです。必要な憲法改正さえ出来ないのは、この国がそういう人たちが醸し出す空気に、未だに根強く支配されているせいではないでしょうか。
「坂の上の雲」に話を戻しますが、何のことはない、これでやっと菊池寛の「大衆明治史」の水準に戻り始めたというわけです。しかし、乃木将軍を徹底的に無能な人物として描いた司馬氏に対して、後に反論や弁護論が続出したところをみますと、菊池寛の観方の方がずっと公平だったのかもしれません。
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それでもまだまだ洗脳は解けていない。 |
それにしても、いったんしっかりと植え付けられてしまった自虐思想の克服ということは容易なことではありません。江藤氏がGHQの洗脳工作に気付くまでに、敗戦から35年を要しましたが、それから45年経った今もなお、多くの国民はいわゆる東京裁判史観をひきずったままです。
またその後、洗脳だけではなく、いろんな面でだまされ続けてきたこともわかってきました。その最たるものは、アメリカのオレンジ計画でしょう。「日本を経済封鎖し、孤立に追い込み、開戦に至らせる」という計画が1906年(明治39年)からすでに始まり、そのシナリオ通り1941年(昭和16年)12月8日に日米戦争は始まったのであります。これはもう憤りを通り越して感嘆するほかありません。
外交というものは、国家相互の助け合いなしには成り立たないのでありますが、同時にだまし合いでもあるのです。そして国際常識からすれば、だまされる方がバカなのでしょう。日本人は得てして善悪論で外交を考えがちだが、それだけではだめで同時に勝敗論、つまり勝ち負けで考えなければならぬと説く人がいます。いくら立派な口をきいても、勝てなければ意味がないのです。その最たるものが戦争です。だからこそ外国は、勝つためならどんな汚い手でも平気で使うのです。
日中戦争の折、中国は武力では日本に対抗できないとなると、日本人の目から見るとあらゆる汚い手を使って欧米諸国を味方に付けることに成功しました。
そういうことをわきまえておくのが何より大事なのに、自虐思想にはそれがすっぽり抜けているため、自分たちだけが悪かったのだと、或いは自分たちが一番悪かったのだと、本気で思い込む人たちを大量生産してしまったのであります。
それは学校教育のせいでもあります。GHQは日本が二度と立ち上がれぬよう、そして将来にわたって決してアメリカに歯向かうことのないよう、日本教職員組合を実行部隊に使って日本人の精神を改変しようとしたそうです。
ある女子高生が、「高校までの授業ではいつも日本が悪者で悲しかった」と語ったといいます。というのも、「日本が戦争をしたのはABCD包囲網で、このままじゃ死ぬしかなくなったからではないですか?日本だけが悪者のように言われるのはおかしいと思います」と学校のクラス会で意見をのべたところ、教師から本気で怒られたそうです。ABCD包囲網というのを知っているだけでもたいしたものですが、近頃は何でも携帯で調べられるので、知りたい方はそれで調べてほしいです。この女子高生の話はそんなに昔の話ではなさそうなので、GHQの支配はたった7年間であったのに、よくもまあここまで影響力が続いたものだと思います。
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戦犯の犯罪者扱いはもうやめにしては |
東京裁判にしましても、A級戦犯というのは、勝者の一方的な決めつけによるものという意見は当初からありました。しかしそれでも大方の日本人は彼らを犯罪者とみなしていたように思います。私自身も何となくそう思い込まされて育ってきました。その考えがいつの頃からか徐々に変わり始めたのではありますが、かなり長い間疑問に思わなかったのは、少なくとも敗戦の結果責任は負わねばならぬ人たちである、とみなしていたからだろうと思います。
1979年(昭和54年)に朝日新聞が、彼らが密かに靖国神社に合祀されたことを問題にした時も、敗戦後40年を経た1985年に、これも朝日新聞が首相の靖国参拝を外交問題に仕立て上げた時も、A級戦犯そのものの妥当性について問題にする人はあまり見かけなかったと思います。私自身も、靖国参拝が外交カードにされてしまったことを、極めて不愉快には思いましたけれども、所詮は他人事で、自身のことにかまけて、彼らのことを真剣に慮ることまではしませんでした。
何時の頃から疑問を持ち始めたのかは思い出せませぬが、そんなに昔のことではありません。とりわけ21世紀に入ってからは、実にいろんなことが明るみに出てきたからです。そして今では、彼らは長期にわたるアメリカの日本征服計画や、日本と中国国民党、日本とアメリカを戦わせて消耗させようとした、コミンテルン(国際共産主義指導組織)の策略に翻弄されたあげく、「平和に対する罪」や「人道に対する罪」まで着せられたスケープゴート(生贄)に過ぎないと考えるようになりました。いくら敗戦責任者とはいえ、同じ日本人が彼らのことを犯罪者扱いするのはもうやめようや、と言いたくてならないのであります。
日本側の真の戦犯と言うべきは、まず日本の敗北を画策した近衛文麿とその側近であった尾崎秀実、風見章たちでしょう。それと敢えて単純化して言うなら、秋丸機関という優秀なシンクタンクにより策定した軍全体の方針に反して、真珠湾攻撃という謎の暴走を強行した海軍の永野修身と山本五十六たちが結果的に戦犯ということになってしまいます。どちらも立派な軍人で、悩みぬいた末の決断であったことが調べればわかるのですが、そのアメリカ相手に戦うという最悪の選択の後押しをしたのが、マスコミをはじめ、国中にみなぎる当時の空気でした。「鬼畜米英」という言葉を初めて使って戦争を煽りに煽り、その後ソ連のスパイであることが発覚して、戦争中にゾルゲと共に処刑されたのが尾崎秀実でした。
A級戦犯の中でもいちばん貧乏くじを引いたのは、やはり東条英機氏でしょう。戦後この人ほどぼろくそに非難された人は、まずいないと思います。私が一番鮮やかに記憶しているのは、唐木順三という、今ではもう忘れられかけている思想家が、東条さんの「私ごときは罪人も罪人、大罪人ですよ」と、何かの折に語ったらしいことに対して、「未曽有の不始末をしでかしておいて『ごとき』とは何事か」と嚙みついていた文章でした。つまり、自分の罪を人間一般の罪業のようにすり替えてしまうとは、なんと傲慢で卑怯な言い草か、お前なんかヘリ下る資格もないんじゃ、というわけです。
そのように死後も鞭打たれまくっただけではなく、家族や子孫もずいぶんつらい思いをしたらしいです。東条さん自身は家族に、言い訳は一切するな、と申しわたしていたらしいのですが、これも悪くとれば、自分一人の責任なのに家族にまで偉そうに指示するとはなんという言い草か、と言われかねないでしょう。
そんな逆境のなかでも、次男の輝夫氏は戦後の名旅客機YS11の開発に功績があった一人として、あの「プロジェクトX」という番組で取り上げられていたのをみて、少しほっとしたのを覚えています。
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 ウォーキングコース 秋 |
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「空気」の支配力を自覚させられたのも戦後のこと |
どんなことでも、認識が改まるのはそう簡単ではありません。年月がかかるのです。私自身がそうでした。最初はほとんど何も考えていませんでした。先の大戦についても、新聞の論調を正しいものとして、そのまま鵜呑みにしていました。いつの頃だったか、戦前戦中軍部以上に好戦的で、開戦を煽ったのはほかならぬ新聞であったと指摘する人が現れました。その程度のことさえ「へーそうだったのか」と新鮮な驚きだったのを覚えています。
その反動か、それとも同じ体質が形を変えて表れただけなのか、新聞は今度は極端で非現実的な平和反戦主義を煽るようになりました。1959年(昭和34年)、日米安全保障条約改定に大反対のキャンペーンを張ったのがその典型です。そのせいか、反対しなければ人でないような空気に、あの頃は確かに支配されていたように思います。今から思えば敗戦からまだ14年しか経っていなかったのでした。
私がちょうど学生生活を送っていた頃で、反対のデモ行進に駆り出されて、納得のいかぬままに、言わば同調圧力に負けて付き合わされたのです。勇気がなかったからというより、違和感がありながらも納得のいかぬ理由をちゃんと言語化できなかったからです。あの石原慎太郎氏でさえ、お義理で行進に参加したというのですから…。その3年前に「太陽の季節」を書いたというのに、断る理由を言語化できなかったとみえます。
そういう日本人の同調圧力に弱い気質を、はっきりと言語化してわからせてくれたのが、山本七平氏の「空気の研究」(1977年・昭和52年)でした。これで初めて我々は自分たちの性癖を自覚できるようになったのです。開戦から36年も経っていました。
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〇 水と安全はほんとうにタダか |
その山本さんの一番よく知られている言葉に「日本人は水と安全はタダだと思っている」というのがあります。「日本人とユダヤ人」(1970年・昭和45年)
安全がタダというのは、国内の治安が良いので個人が防犯にお金をかけなくてすんでいるということです。外国人を受け入れ過ぎて、55年前に比べて治安が悪くなってはいますが(これはヘイトとか偏見とかに関係なく事実です)、それでも、今もなお私を含めてそう思っている人も多かろうと思います。
しかし、安全には国内の安全のみではなく対外的な安全維持ということがあります。これに多額の税金が投入されていることは言うまでもありません。自衛隊以外にも在日米軍の駐留費が加わるからです。この駐留費、最初のころは安上がりだったかもしれませんが、今ではずいぶん高騰してしまい、まだまださらに要求されそうです。それ以上に、真の独立を果たせていない国民の精神的ダメージは計り知れません。それなのに、あれだけ条約改定に反対した人たちが、その条約の上にそのままあぐらをかいて思考停止。独立など望んでいないように見えます。独立を果たすには、もっと軍備を強化しなければならないのですが、とにかくそれが嫌なのかもしれません。それとも、今でも丸腰での独立が可能だと考えている人たちがいるのでしょうか。それがまだまだいるらしいのです。話し合いだけですべて解決できる、すべきであると頑固に夢見る人たちが…。
民主主義国家ならまだしも(それでもアメリカは巧妙に戦争を仕掛けてきました。西欧諸国は植民地支配を続けました)、侵略の意思を隠さない(解放するのだという名目で)独裁国家となると、チベットやウイグルの例を見てもわかるように、対抗できるだけの武力がない限り、話し合いなど通じそうにありません。まともな対話が成立するためには、相応の武力を背景にするか、それが不足しているとなれば、他国と同盟を結んで対抗するしかないのです。同盟を結べば、当然他国を助ける義務も生じます。国防とは実に高くつくものであり、大きな犠牲を払わねばならぬものなのです。
ところが、その国防すらもタダだと錯覚した時期が確かにありました。日米安全保障条約が結ばれた当初、強い日本軍を復活させたくないアメリカは、駐留を続けるついでに日本を守るが、日本はアメリカを守らなくてもいいとしました。それ以前に日本を完全に無力化する憲法も押し付けていたので、自衛隊に対等の働きを要求するわけにもいかなかったのです。
それで日本は心置きなく経済活動に専念して発展することができました。いつしか米軍の存在すら忘れて、何もしなくても安全は維持できていると錯覚する人たちも現れました。米軍に出て行けと叫ぶ人たちもいたのは、独立志向からではなく、全体主義国家に解放してもらうのに邪魔だったからでした。
そんな状態をアメリカ様が黙って見過ごすわけがありません。以後いろいろと要求を突きつけられ、だまされ、むしり取られ、邪魔者は排除されて今日の衰退に至るわけです。首相の権限も及ばない日米合同委員会という陰の支配組織があることも、国民には知らされていません。マスコミも報じません。
もう一つの水についてですが、21世紀は水争いの世紀だと言われているのを、日本人はどの程度深刻に受け止めているでしょうか。中国が世界からどんなに非難されようと、汚い手口でのチベット侵略・併合をやめなかった第一の理由は、チベットの豊かな水源をどうしても確保したかったからだと言われています。これも中国からちょっと非難されただけで恐れ入ってしまう今の日本人と比べてどうなんだろうと思ってしまいます。
おまけに、日本の水源地帯の山林を買い占められても何の危機感も持たず、適切な手立てを講じようともせず、むしろ妨害する政治家たち(親中派と言われる)を見て、こちらの危機感はつのるばかりです。歌手の世良公則さんや長渕剛さんや宇多田ヒカルさんまでが、強い懸念を表明しているというのに…。
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意図的に取り上げられたものは意図的に取り戻さねば |
以上が、80年近く経てようやく私にわかってきたことです。2007年(平成19年)に、教内のある論争に参加して「歴史認識や平和論について」を書きました(ホームページには第8話として掲載)。私が書くものにしてはわかりやすいと言ってもらいましたが、その時点ではまだ知らないことがいっぱいありました。日本の軍国主義が戦争を引き起こしたという言い方は違うのではないかと疑問を呈しながらも、具体的に反論できるだけの材料が揃っていませんでした。オレンジ計画はおろか、近衛内閣を泥沼の日中戦争に引き込んだ太平洋問題調査会というスパイ組織(コミンテルンや国際金融資本による)のこともまだ知りませんでした。
80年後の今日一層明らかになってきたことは、日本人の多くが愛国心をなくし、誇りを失ったのは、意図的にそう仕向けられたからだということです。意図的に取り上げられたものは、意図的に意識的に心して取り戻す努力をしなければなりません。でないと今日の衰退から抜け出すことなど到底おぼつかなくなります。
そのためには、前にも言ったように、格別美化や正当化を試みなくても、日本の良いところも悪いところもありのままに知るだけで、十分誇るに足る国だということなのであります。これまであまりに悪いところだけを強調されたり、誇張されたり、あらぬ罪をきせられたり、自分たちだけが悪かったのだと思い込まされたりし過ぎたのです。
今一つ取り戻さねばならないのは、祖先に対する感謝の気持ちでしょう。古来我々の祖先が、外からの侵略や圧力を跳ね返すために大変な苦心を重ねてきてくれたからこそ、この国が保たれてきたのであります。そのことにも他の機会に触れてみたいと思います。
前回に続いて皇室について話をさせて頂くはずが、前置きが膨らみ過ぎて、私のような平均的人間の目から見た戦後日本人の精神史と、長い年月をかけやっと見えてきた問題点について語ることになってしまいました。
残り少ない人生も、すべてこの大切な国の国土、自然、文化、言語、そして国民がしっかりと守られていくよう、更にせっかく二千年以上国を支えてきた皇室も守られていくよう、日本という国家の繁栄と安泰を強く願い続けたいと思います。
皆様もぜひ、皆様の子孫や後に続く人々の幸せのために、共にそれらのことを考え続け願い続けて頂きたいのです。金光教祖様は「国家信心をせよ」と言われましたが、国全体の繁栄と安泰なくして個人の幸せはあり得ないのですから。
この齢になってもまだ元気で来し方を振り返り、国の行く末を案じさせて頂けることに深く感謝しながら話を終えさせて頂きます。
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談話室より |
S.Sさん(男 60代 海外在住)R7.10月
自民党も左から右へ、参政党の躍進等、物価に苦しむ庶民の怒りもありやや右に振れてきていると思います。世界中、ドイツを含めてそうですが。
資源、食糧を持つ大陸国家は本当に強いと思います。平和が一番ですが、日本は巻き込まれずに、大国同士で戦い消耗してもらうのがいいと思います。例、朝鮮戦争、ベトナム代理戦争。
今回、金光教のお話は全くなかったですが。。。
教会長より
世界の国々の「右傾化」の背景には、移民問題など、グローバリズムがもたらすマイナス面が強く意識され始めたからでしょう。
今回金光教色を前面に出すことを控えたのは、より多くの人と問題意識を共有したいため、最初から友人知人への文書の配布範囲を拡げる意図もあったからです。
そして、金光教の一信奉者として国家の繁栄と安泰を祈るということの背後でも、過去にどれほど様々な思いを積み重ねてきたか、そして今どれほど強い危機感を抱いているかということを伝えたかったのです。
朝鮮戦争やベトナム戦争の頃と違って、アメリカが世界の警察であろうとする意志も能力も失いかけている今日、中国の台湾侵攻でも始まれば、日本は巻き込まれずに済むどころか、戦場となり、輸送路も絶たれてたちまち飢えや物不足に苦しめられることになりそうです。
どうすればそれが阻止できるのか、ただ祈るしかないわけですが、徹底した無知無力の自覚に立ちながらも、自分一人の祈りで戦争を食い止めてみせるのだというほどの意気込みで、無力感を捨てて祈るのが我が道の信心なんだと考えています。
再び教会長より
実弟奥村正利から長文の感想が届きましたので、ひとまず全文掲載しておきます。今回から実名にて紹介します。ついでに略歴も末尾で自己申告させました。
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奥村正利さん(教会長の弟 84歳 千葉県市原市在住)R7.10.7
明治は維新後45年、昭和も終戦後44年続いた。偶然乍ら、思えば長かった。
自虐史観は、我が経験では、幸いにして、小学校では歴史教育は殆どされず、地理に至っては、購入させられた地理書を学校へ持参したことさえ無い。教師に教える自信が無かったと思われる。
中学校では、歴史を頑固な袴姿の老婦人が担当して、旧日本を賛美していた。
結局歴史教育は、兄や姉の戦時教科書を紐解いて自学自習、中学ではすっかり国粋少年になっていた。英語授業なんて国賊だと決めつけ、公言し、若い気弱な教師を無視して、授業中は一番前の席で背を向けておしゃべりしていた。お陰で実力テストでは、他教科がトップクラスでも平均以下の英語に足を引っ張られ、総合順位は常にBクラスであった。この露骨な嫌がらせとその結果を、両親も教師達も、誰も何も咎めなかった。表向きと違い、内心では共感していたのではなかろうか。
大学入試に至る英語には苦労した。予備校への電車通学中にバルザックの「ゴリオ爺さん」の英訳版を読み切って、やっと克服できた。考えなくても英作文がスラスラと!しかし発音やヒヤリングは未だに不得手である。
1960年代、大学は自虐史観の坩堝であった。戦後教育の優等生達である。個人的には素晴らしい人材達、喧嘩することはない。殻をかぶって、共産党の民青とも反日共系の全学連闘士達とも仲良くやった。数年後なら二股掛けでリンチに遭ったかもしれないが、半世紀以上、未だに交流は続いている。政経分離である。
下宿先は留学生が半分を占める43室のアパートであった。紛争も多かった。留学生達は断固として「自己の非」を認めない。物証が有ってもである。後年ロシア大使は、ウクライナ侵攻が始まっているのに「我が国は決して他国を侵攻しない」と主張しているのを見て、さもありなん!しかしその留学生達、紛争解決手段で「ポリス」に言及した途端、サーッと部屋へ消えていった。権力には弱いのである。国際関係では力が物を言う。彼等に比べ、日本人の「悪(ワル)」なんて可愛いもの、話せば解る!
日本人にとって政治・宗教は深刻なものでは無くなっているのだろうか?神社仏閣では礼をし、皇室を敬愛し、しかし日常は忘れている。クリスマスを祝い、教会で結婚式を挙げる。そんな日本人を私は愛してやまないのである。
日本人とは何か!「日本語を話し(思考方法が同じになる?)、皇室や伊勢神宮を敬愛するなら誰でも日本人だ」と言い切る学生がいた。年齢差50歳ながら感心した。他方、一神教徒の戒律は迷惑である。上記の学生宿では、タオルで前を隠すイスラム教徒に、「共同風呂では衛生上裸で入れ」と、彼等の戒律を曲げさせた。土葬も禁止させるべきである。菜食主義者も意味不明で大迷惑!植物も我々とDNAを多く共有する生物である。智恵もある、会話もできる。石でも齧れ!
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司馬遼太郎は日本人を目覚めさせてくれた。しかし、対ソ戦では本人も騙された。ソ連の資料が公開されて判ったのは、あのノモンハン事変では、あれだけ圧倒的な物量差が有りながら、ソ連軍は日本軍より損害が大きく、スターリンを絶句させたと言われる。戦後、スターリンと毛沢東が日本軍国主義復活を大袈裟に恐れる理由を、子供心に分からなかったが、納得である。
中国戦線は「日本軍は点と線だけ」と主張されていたが、その「点を占拠される」事がどんなに大変だったか、中国人作家が百家争鳴の時の作品で述べていた。その作家は後の反右派闘争で消されたが、中国は日本軍を点から追い出せなかった。勝てなかったのである。終戦で引き揚げる日本軍の途中武装解除もできなかった。抗日戦勝利なんておこがましいのである。
日露戦争での乃木希典の評価:ロシア側では、旅順の敗北原因として、11インチ砲とトンネル掘り作戦を高く評価しており、攻撃側の機関銃による屍山血河は、日本もロシアも同じとしている。この突撃攻撃法はその後も踏襲され、各国語に翻訳された櫻井中佐の「肉弾」を、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は全将校に配布し、第一次大戦初頭のベルギー防御線突破では、屍体の山が堤を成すのをためらわなかった。
北一輝は「あれだけ兵を殺しながら、兵から許された唯一の将軍」と評している。
日本人とユダヤ人:28歳の時に読んで衝撃を受けた。「日本人は安全と水をタダと思っている」等々の比較文明論もさりながら、書中の日本側古典を殆ど読んでいなかった。一念発起して平家物語・古事記に始まり、吾妻鑑・・甲陽軍鑑・・日本外史・・等々、片っ端から読み漁った。20年を要した。作者のイザヤ・ベンダサン=山本七平の空気論では、「日本における多数決は、議場と飲み屋の二重方式で、両者を合わせた総計の多数決が最も正しい多数決となる」とか「ジュッと熱く感じない限り理解しない人々には、如何に論証しても耳を傾けさせることはできない」も実感である。
「平和」「平和」と叫んでいれば平和が保てるという思考は、お経で蒙古襲来を防ぐようなものである。「命は地球よりも重い」なんて叫ぶ輩もいる。呆れたものだ。社会あっての人民、地球あっての命である。
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焚書:GHQが「日本人に読ませたくない本」とした中にあるか否かは知らないが、「石原莞爾」に触れたことが有る。僅か万余の軍隊で全満州を掌握するなど、常人の技ではない。余程の政治的働きをした筈、しかし掴むことはできなかった。石原なら対米戦にどんな戦略で臨んだかも、推察できなかった。「新兵器(原爆?)開発に先に成功した方が勝者」ということだけ。当時大慶油田に気付けなかった不運は決定的だが、小生なら、レーダーと潜水艦に国力の大半をそそぐのみ。
日露戦争では、発明されたばかりの無線電信を、あの遅れた貧乏国が世界に先駆けて実用化し、全艦船への装備に成功しことが、ロシア艦隊の発見と報告につながり、日本海海戦の勝利につながった。一方今大戦では、レーダーは東北大学で発明されたのに、採用せず、後れを取って一方的に叩かれた。対等休戦に持ち込むには、太平洋と言う長大な輸送路を遮って、物量差と均衡させるしかない!それでも新兵器(原爆?)の前には潔く降伏しよう。優秀な軍人官僚に過ぎない東条英機には、沸騰する強気論を調整するのみ、対外駆け引きの決断は無理というものである。
東条はエースを集めて調査機関を作ったは良いが、その調査報告「長期戦になるとドイツはソ連に勝てない、日本はアメリカに勝てない」を、世を混乱させるとして握り潰した。目先の政治的配慮が優先したのであろう。
開戦直後の嚇嚇たる武勲は帝国陸海軍の面目躍如であるが、ミッドウェー敗戦は、旅順での「保有主力艦6隻のうち2隻を、示威航行中に機雷で撃沈される」という大失態に似たようなもので、不利な態勢が少し早く来たと言うに過ぎない。物量差との均衡をどう築くかが肝要であった。同じ15万tなら、大和・武蔵より「潜水艦100隻で通商破壊」がより適切であったと考えられるのである。
補足:終戦に際し、本土決戦派も早期終戦派も、共にソ連の誠意頼みだったことは驚きである。
ソ連が日ソ不可侵条約を守る事を前提に、本土決戦派は満州の精鋭をことごとく南方へ、多くを沈没や飢餓に斃れて無駄に喪ったが、後背地の安全は確保されているとして、本土決戦で一泡吹かせて休戦へ!一方終戦派は何とかソ連の仲介で休戦交渉をしたいと、主戦派のテロに怯えつつ対ソ交渉に持ち込んだは良いが、1ヶ月も返答をのらりくらりされた挙句に、突き付けられたのが宣戦布告、東郷外相は腰を抜かさんばかりに驚いたのだろうが、自分の不明を恥じるだけであろう。
それにしても杉原千畝のグループが、ソ連参戦と言うヤルタ会談の内容を入手し、外務省に送りながら、何処かで握り潰された。主戦派にも終戦派にも都合の悪い情報であったと考えられる。
結語:日本の独立を守るには、半世紀以前なら、無数のミサイルを設置して、攻めてくる艦船・航空機を片っ端から沈めればよい。それでもだめなら、例えば核攻撃してくるなら、地球を亡ぼすコバルト原爆をセットして、地球毎一緒に亡ぼせばよいと考えていた。
2008年だったか、尖閣を巡り、日中衝突が危惧されたとき、中国では海保への志願者が激減したのに反し、日本の海上保安庁には万余の志願者が殺到した。筆者が当時働いていた大学研究室の4年生も、皆が引き留めるのを振り切って、大学を中退して志願して行った。「日本人は義で動く、朝鮮人は情で動く、中国人は利で動く」危険と思えばサッと散る中国人、立ち向かう日本人、本質は変わっていない。
今は無数のドローンだけでなく、宇宙からの攻撃、何よりウィルスを含めた情報戦、中国人にとって個人的に危険が及ばない戦い方ができる。しかし最後は肉弾戦、多様な対策と決意が必要と考えられる。これをだれに託すか、高市新首相に期待したいところだ!
奧村正利略歴
京都大学理学部化学科卒業後日曹化工(株)に入社、その後合併に伴い日本曹達(株)へ。その間生活用品(ソックタッチ、ホカロン・・等々)の開発を担当、1982~1990年、ファインセラミックスブームに乗って、焼結困難な炭化ケイ素粉末から、有機ケイ素を利用して炭化ケイ素成型体を作成する研究を担当し、世界で初めてその量産化に成功した。12年の空白を経て、定年退職後、大阪大学産業科学研究所、続いて長岡技術科学大学で計6年半、有機ケイ素単体からの高純度炭化ケイ素成型体作成研究に没頭し、マイクロチューブやシート作成に成功した。目標は高純度炭化ケイ素成型体の任意形状作成である。
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