大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。 ホームへ教会のご案内 教会長からのメッセージ
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金光教高田教会、うどんが好きかラーメンが好きか
24 豊田喜一郎の
ドラマで考えたことなど
大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。
もくじ
▲ 普通の生活を営めることが一番有難い
▲ サプリメントで元気で長生きを目指す
▲ 平穏な日常の関心事は自身の心の動き
▲ 人間世界の営みについての感想は千差万別
▲ 批評サイトを参考に、映画を録画、保存
▲ 批評サイトの魅力は双方向性
▲ 自分はまだまだ少数派
▲ 1票の重みを感じることもある
▲ テレビ・ドラマも好き
▲ ドラマ「リーダーズ」は見応えがあった
▲ こういう人たちのおかげで、日本に生れたことを感謝できる
▲ 悪役のことも調べてみたくなった
▲ 悪役の銀行家とて勲一等
▲ その上、本教の人物とも意外な接点
▲ 善悪白黒は簡単には割り切れない
▲ 一方的な意見ばかり読まされると、気が変になりそう
▲ いちばん承服できないのは、責任ある立場に置かれた場合への想像力を欠いた空論
▲ 心に響いた意見はただ一つだけ
▲ バランスのとれた健全な感覚を持ち続けたい
▲ 退屈されそうな話にせめてもの色つけ
▲ 我々自身も国家に尽くしたい
▲ 「治国」を軽んじる人々に共感できない
▲ 国旗国歌が象徴するのは、国の全歴史と今ある国全体
▲ 皇室制度は、日本人の知恵が長年育み維持してきた独自の優れた制度
平成二十六年五月五日 奈良県 五条教会にて
 今の時代、私たちの日常の信心生活の上で、もっとも切実な課題は何でしょうか。
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▲普通の生活を営めることが一番有難い
 私方の信者さんを見渡しましても、個人的に深刻な問題をかかえていそうな人はごく一部で、大方の人は平穏無事に過ごしておられるように見えます。
 私の場合も、仕事上の悩みは相変わらず尽きることはありませんが、それでも、目先、食うに困るということもなければ、健康上の大きな悩みも今のところありません。と言いましても、この齢になりますと、普通の平凡な生活を営めることがいちばん有難いのですが、それがまただんだんむつかしくなってきまして、いつ何時体のどこかに故障が起きてもふしぎではないのです。
 最近も、新聞の投稿欄に、血液のがんの治療中の49歳の女性が、ようやく杖なしで歩けるようになり、近所の運動公園に散歩にでた体験を書いていました。まだ自転車に乗ることも制限されているのですが、突然吹いてきた春風に、「自転車で風を切る」懐かしい感覚が甦って一瞬幸福感につつまれたというのです。まだ乗れるようになったわけではなく、記憶がよみがえっただけなのに、これほど喜べる境遇の人もいるのだと知ったとき、いまだに無造作に自転車に乗せてもらえることに対する感謝の念の足りないことを痛感させられました。
 今となっては、何処へ行きたいとも、格別うまいものを食べたいとも思いません。社会人になった孫の一人が、そのうち一緒に海外旅行をしようと言ってくれてはいます。その気持ちは嬉しいですが、私はウォーキング・コースを毎日支障なく歩けるだけで十分なんです。
 食べることも、スーパーなどで手に入る安い食材で満足できています。食事の支度も、ごく簡単な料理なら自分でできるので苦になりません。一時、母親の食事の世話をしたことがありますので、自分一人の食べることさえ心配していればよいということほど楽なことはない、という感覚でいつも過ごせています。
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▲サプリメントで元気で長生きを目指す
 朝食は何時もバナナを1本の3分の1、リンゴを6分の1切れほど、あとは柑橘類2,3袋か干しブドウを少々、そして白湯でサプリメントをとります。
 昼食は、大抵1食4、50円の即席めんと前日のおかずの残り物とサプリメント、そんな食事でも、朝から昼の食事が楽しみな時は、体調ががよい証拠です。
 食事ごとにサプリメントは欠かせません。目によいサプリメントだの、骨を強化するサプリメントだの、全体に効くローヤルゼリーだの、他にもいろいろ試しています。言ってみれば「サプリメント・オタク」です。そうした費用だけは馬鹿になりません。自分でも酢大豆や酢にんにくを長年作り続けていて、それなりの効果を確認しています。にんにくの臭いを消すために一緒に牛乳を飲んだり、りんご3分の1を食べます。大きさにもよりますが、朝食のリンゴと合わせて、およそ1日に半個食べることになります。
 そこまで健康にこだわるのは何故か。要するに、できるだけ長く元気で御用を続けさせてもらいたいのであります。不徳非力にして何の実績もない故に、せめて年数で稼がしてもらいたいのです。「問題山積、前途多難、日暮れて道遠し」というのが、教会の現状に対する私の基本認識でありますが、それを自分の代で少しでも打開しでおきたいのであります。
 そういう大問題大目標は、一朝一夕でどうにかなるというのでもなく、ひたすら根気と元気と勇気と信念で取組み続けるしかないのですが、自分が一日にできるこことといえば、まことに高がしれたもので、あっという間に一日が過ぎてしまいます。
 しかし、すぐにはどうにもならないそういう大問題、大目標にばかり気を取られて、手元足元の日常生活を楽しんだり、味わったりすることもおろそかにならぬようにしたいと思っています。
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▲平穏な日常の関心事は自身の心の動き
 そうした日常生活の中で、私の主たる関心事の一つは、自身の心の動きそのものに対する関心であります。
 私方の親教会の初代が教祖から頂かれた教えの中に「信心している者は、子守の歌もあだに聞いてはならない」というのがります。「天地の親神は人の口を借りて教えて下さる」という前置きがあっての教えでありますが、子守の歌に限りませず、人間、何かを見聞きしたり経験したりしますと、そこに必ず何らかの「感想」というものが生じます。そういう能力が人間には授けられてあるのです。
 ということはとりもなおさず、森羅万象すべてが神の教えであると同時に、少し別の角度から見てみますと、自分の心を映す鏡のようなものであるとも考えられます。その映り方は、人によって必ずしも同じではなく、それぞれの心の状態によって映り具合に差があり、鮮明さの度合いも違います。
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▲人間世界の営みについての感想は千差万別
 森羅万象の一つである、大自然の美しい風景というものに触れて感動する心などは、あまり差がないかもしれませんが、同じ森羅万象に含まれるものであっても、人間の世界の中で営まれる事柄について起きてくる感想は、人によって千差万別、実にさまざまであります。
 そのことをことさら意識させられるようになりましたのは、パソコンをいじるようになってからです。
 私がパソコンをいじるようになりましたのは、だいぶ遅くて、ようやく70歳近くになってからでした。それまではずっとワープロを使い続けていました。ワープロが世間に出回りはじめたのは、ちょうど家内に先立たれた年のことであります。それまで、案内状作成などの事務的な仕事は殆ど頼り切りであったのが、とうとう頼れなくなってしまいましたので、当時はまだかなり高価でしたが、すぐに飛びついて利用するようになったのです。
 それ以後も、教会で必要な仕事は大抵それで事足りていましたので、コピー機やワープロやファックスなど、新しいものにはすぐ飛びついたくせに、パソコンを取り入れるのだけはかえって人より遅れてしまいました。
 そのワープロが早くも廃れて、製造されなくなったので、やっと重い腰をあげてパソコンを取り入れるようになったのですが、いまだにワープロの最後の機種と併用しながら使っているのであります。
 パソコンを使い始めると確かに便利で、しかも人との繋がりを持てる範囲が飛躍的に広くなりました。しかし、まだまだ使いこなせなくて、活用しきれていないのをもどかしく思っています。
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▲批評サイトを参考に、映画を録画、保存
 それでも最近、ようやくインターネットの批評サイトというものを利用するようになりました。「インターネット」だの「サイト」だのという言葉は、実際にパソコンを見てもらいながら説明すれば簡単にわかるのですが、いざ言葉だけで説明するとなると、ものすごくややこしいので、まだ知らない方は、知っているつもりで聞き流してください。
 このごろの私は、眼も耳も衰えたので、本をあまり読みません。音楽も聴きません。楽しみといえば、大きめの画面でテレビを観ることぐらいです。他に何もしません。それでも、わざわざその場所に出かけなくても、テレビ画面に映る風景だけでも結構癒されますし、生身の人間でなくても、画面に映る人々にも癒されます。
 テレビを観れるのは、夕方のコーヒータイムと、夕食時夕食後ぐらいで、ドラマや過去の映画を主として録画で観るだけです。
 映画の場合は、先ずパソコンで、BS放送の番組一覧に予告された映画が録画に値するかどうか、複数の批評サイトである程度見当をつけます。
 といいますのは、どんな映画であっても、たいていは、その映画について感想や批評を書き連ねたサイトというものが存在するのです。5段階評価で点数をつけるようにもなっていて、平均点もわかるようになっています。あまり最初から予断を持たないように用心しながらも、何しろ数が多いので、まずそれらを参考にしてふるいにかけるのです。
 そうして録画したものを、時間が足りないので、ところどころ早回しで観ます。その上で、更にブルーレイ・ディスクに保存し直すかどうかを、自分の好みで決めます。
 そんなことをしたって、見直す機会がほとんどないままに、結局は捨ててしまう可能性の方が大きいのに、それがやめられないのです。唯一有難いのは、ビデオテープの時に比べて、ブルーレイ・ディスクというのは、寸法がずっと小さく薄くなったのに、録画できる量がが3倍以上になって、あまり場所を取らなくなったことです。
 保存するかどうか、好みで決めると言いましても、ひょっとして自分がその作品の値打ちや面白さを見落としてはいないか、もう一度批評サイトに戻って、今度はじっくりと読み直します。と言いましても、とても全部は読み切れないので、役立ち度の点数の上位のものを中心に、これっと見当をつけたものだけを読むのです。
 大勢の人の知恵というものはたいしたもので、自分が全く見落としていた事柄や考え及ばなかった事柄に気付かせてくれたり、ぼんやりとしか意識できていなかった事柄に適切な表現があたえられていたり、といった場合が少なくないのです。そうした他人の評価をも加味して、残すかどうかを決めるのであります。
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▲批評サイトの魅力は双方向性
 これらの批評サイトの魅力の一つは双方向性にあります。一方通行ではなくて、登録さえすれば、自分の考えも反映させることができるのです。その批評が役に立ったとか、その考えに共感できるとかを、ポンとボタンを押すだけで、簡単に意思表示ができ、更に労をいとわねば、自分の意見も投稿できるのです。つまり、そういう形で世の中と繋がりを持つことができるのであります。
 これまでは、その簡単な登録手続きさえもわずらわしくて、一方的に読むだけで過ごしてきたのでしたが、ごく最近、ある批評サイトに登録手続きをして、参加できるようになりました。このサイトでは、映画だけではなくテレビドラマなどの批評も投稿できるようになっています。日頃、己の無力さというものを常に思い知らされ続けているだけに、せめて、いかに微々たる力であっても、使える力は使いたい、という気持ちがそうさせたのであります。
 どんな映画やドラマであれ、それに批評を書くということは、それだけの時間と労力を要するはずです。それに対して、「参考になりました、有難う」とか「私も同じ考えです、賛成です」とか、たとえ一票でも意思表示をしてみせることは、投稿した人を元気づけることになるのではないかと思ったのであります。
 そのことは実際に自分で、この3月に終了した連続ドラマや単発ドラマの批評を幾つか投稿してみて、一層はっきりしました。自分の書いた批評に票が入ると、ものすごく嬉しいのです。
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▲自分はまだまだ少数派
 自分のような考え方をする人間がまだまだ少数派であることもはっきりしました。批評をするときは5段階評価で点数をつけることになっているのですが、信心する者の習性として、できるだけ広い心で、長所を見つけようとする傾向があるのは否めません。
 ある連続ドラマの総合評価で、私は4点をつけたのに、前後には1、2点という酷評が並んでいる場合があります。そして、私からみればつまらないと思うような批評の方に、私のよりずっと多くの票がはいっていたりして、残念な思いをさせられたりもするのです。
 一般的な傾向として、そういう酷評には評者自身の心の狭さ、視野の狭さが表れている場合が多いのですが、中には尤もだと思える、傾聴に値する批評がふくまれていたりもしますので、一概には言えません。
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▲1票の重みを感じることもある
 そんなサイトの批評に自分が1票を投じたぐらい、世の中に何の影響もあるものか、とはいうものの、それでもなお、1票の重みというものを感じさせられることがあります。
 ある映画の批評サイトの中の批評で、私にはわりと共感できる部分があるのに、賛成票が1票も入っていないのがありました。映画の批評サイトには、どれだけの人がその批評を開いてみたかという閲覧数まで表示されるようになっているのですが、その批評は2年近く前に投稿されていて、すでに300回も閲覧されているにもかかわらず、1票も入っていないのです。
 その批評に最初の1票を投じたときは、投稿したご本人(女性)はもう忘れているかもしれず、いつ気付くかもわからぬのですけれど、長い間さびしい思いをさせましたとばかりに、1票を投じることに、少なからぬ喜びを感じました。
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▲テレビ・ドラマも好き
 同じ娯楽でも、テレビドラマは映画ほどは丁寧に観ません。疲労回復、気分転換が主たる目的です。だから別段傑作でなくてもよいのです。たとえ傑作と言われるものでも「私は貝になりたい」のような暗くて重いものはあまり観たくありません。B級でもC級でもいいから、後味の悪くないことが、第一条件です。
 テレビドラマを、ろくに観もしないでけなしたり馬鹿にしたりする人がいますが、私は好きです。たとえB級C級と言われるドラマでも、昔に比べれば、飽きさせないように手を変え品を変え少しずつ進化しているのです。
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▲ドラマ「リーダーズ」は見応えがあった
 そんなドラマでも、思わぬ収穫を得ることがあります。ご覧になられた方もありましょうが、3月23,24日に放映された、「リーダーズ」というトヨタ自動車の創業者豊田喜一郎をモデルにしたドラマはとても見応えがありました。
 無知ゆえに、私はこのドラマではじめて豊田喜一郎という人の業績を知り、この人が自動織機を発明した父親の豊田佐吉や、同じ自動車業界の本田宗一郎に勝るとも劣らぬ功績のある人物だと知ったのです。それなのに偉人伝(子供向けの)に出てくるのは佐吉と宗一郎だけで、喜一郎のことは、私など辛うじて名前を知っている程度でした。
 自動車産業というのは、部品数がとても多くて、すそ野の広い産業でありますが、この喜一郎という人は、まだ我が国において製造業が満足に育っていない時代に、親から受け継いだ織物業だけでは飽き足らず、乗用車の純国産を目指して、幾多の困難を乗り越えて実現にこぎつけ、今日の世界のトヨタの礎を築いた人なのであります。
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▲こういう人たちのおかげで、日本に生れたことを感謝できる
 その苦労を知るにつけ、あなたのような人がいてくれたおかげで、日本に生れてよかったと思うことができます、と礼を言いたい気持ちになりました。また実際私自身も、トヨタと縁の深い企業に勤める息子を通して、間接的に恩恵を蒙っているわけです。
 今日、大抵の品物は国産で最も質の良いものが手に入りますが、世界中を見渡しても、そんな国は他にないでしょう。私などの幼いころは、まだ欧米からの輸入品が、上等舶来として珍重崇拝されていたように思うのですが、いつの間にかあまりそのようなことは言わぬようになりました。
 この純国産自動車製造の成否は、我が国がそういう国になれるかなれないかの一つの分水嶺、分かれ目であったのではないかとさえ思えるのです。敗戦後、アメリカは日本にそのような技術力はないと見くびっていましたし、日本の財界の有力者たちの多くもそう考えていました。戦後、日本銀行に長期間君臨し、法王と言われ、大蔵大臣にもなり、子供の私でも知っていた一万田尚人も、そう考える一人でありました。そして、ドラマの中でも、彼がモデルとなった人物は、しばしば主人公たちの行く手を阻む壁として立ちはだかりました。
 ウィキペディアによりますと、一万田は「『国際分業の中では日本が自動車工業を育成するのは無意味である』と、自動車工業不要論を唱えた」とあります。そういう高い技術力と資本を要する製品は、まだとても日本人の手におえないから、欧米から買えばよいという考えでありました。
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▲悪役のことも調べてみたくなった
 あのドラマでのもう一人の一番の悪役は、もとの住友銀行名古屋支店長をモデルにした人物です。トヨタが資金難で倒産の危機に陥った時、当時日銀名古屋支店長であった高梨壮夫は、このままでは名古屋の産業が壊滅状態になると憂慮し、一万田総裁を説き伏せて再建策を整え、地元の銀行25行の代表を集めて支援を要請したのですが、住銀がモデルになった一銀行だけが拒否しました。吹越満が演じるその住銀支店長を、香川照之が演じる日銀支店長が一喝して追い出すシーンは、ドラマの中でも、観ていて最も溜飲の下がる部分でありました。
 と言いましても、ドラマを観ていた時は、それが住友銀行だとわかっていたわけではありません。もともとドラマの中では、銀行名も個人名もみな架空の名前になっていたのです。そこで実際に追い出されたのはどこの銀行だったのかとか、その後はどうなったのかとか、いろいろ興味がわいて調べてみた結果そういうことがわかったわけです。
 当時の住銀名古屋支店長は小川邦彦といい、ドラマの中で面会を拒否したとなっていた大阪本店の融資担当常務というのは、後に財界で重きをなし、これも私でも名前を知っている堀田庄三という人物のことだとわかりました。
 堀田らは、豊田喜一郎や後に社長になった石田退三らに対して、ドラマでもありましたように「機屋(はたや)には貸せても、鍛冶屋には貸せない」という言葉で、にべもなく融資を断り、取引を打ち切りました。父親から受け継いだ織物業を手堅く経営している分には援助できるが、乗用車の製造などという、当時としては山っ気の多い事業に金は貸せないという意味です。
 この件は後々までシコリを残し、トヨタが救済されて発展した後も、住銀だけはその後長らくトヨタには出入り禁止となり、名古屋地方での営業にも苦戦を強いられました。おまけにその15年後、頭取になった堀田と、専務になった小川がそろって、ある件でトヨタに救済を依頼しなければならぬ事情が生じました。その時の石田退三会長の答えが「鍛冶屋の私どもでは不都合でしょうから」であったという因縁話までついています。
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▲悪役の銀行家とて勲一等
 もともと住友銀行というのは、住友家の家憲に則り堅実経営を旨としていました。その上堀田は、入行直後に昭和金融恐慌を体験し、相次ぐ銀行の破綻をつぶさに見ていました。そこでどんなに恨まれても「預金者のお金を厳格に運用するのは銀行の責務」だと、決してたじろがなかったといいます。それはそれで、一本筋の通った硬骨漢だったのであります。
 そして、トヨタの件では裏目に出ましたけれども、その優れた選別眼でもって、数々の優良企業を育てたとも言われています。この人もまた住銀の法王と呼ばれ19年にわたって頭取を務めました。勲一等まで授けられたのは、そうした功績があってのことであります。
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▲その上、本教の人物とも意外な接点
 その上さらに面白いことが判明しました。と言いますか、今日のような話の中で盛り込めるたった一つの、「不思議なめぐりあわせ」的要素を備えた事実が判明しました。
 この堀田庄三という名前、お道との関連で何処かで見たことがあるぞと思い、かすかな記憶をたどって調べ直してみました。するとその名前は、初代サンフランシスコ教会長福田美亮師の伝記「神様になった怪傑」という本の中に何度も出てくる名前だということがわかったのであります。
 この伝記は、福田先生と同じく旧制の松本高校から東京帝大へ進んだ福林正之という親友によって書かれた、本教とって貴重な財産とも言える本でありまして、私自身も45年も前に「青年会弘報」という機関誌にこの本の書評を書いたことがあるのですが、その高校時代の福田師たちの友人の一人として登場するのがこの堀田庄三だったのであります。
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▲善悪白黒は簡単には割り切れない
 そういうことがわかってみますと、物事はやっぱり一面からだけみていてはだめだなあと痛感させられます。全否定もだめだなと思うのです。善悪白黒に割り切れる事柄は少ないのだと思うのです。割り切れないからこそ難しいのだと思います。一万田や堀田の先見の明のなさを責めたりあざ笑ったりするのはたやすいですが、それはあくまで後知恵でありまして、その当時においては、日本の自動車工業の将来性というものは、それほどに先行き不透明だったのであります。

 そして、今でも尚、私共は判断のむつかしい問題を、国レベルでも個人レベルでもいろいろと抱えています。国レベルでは、TPPの問題、原子力発電の問題など、大抵のことは何が正解かわからぬままに決断していくしかないのです。いつまでも議論ばかりしている間がないのです。
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▲一方的な意見ばかり読まされると、気が変になりそう
 昨年紛糾した秘密保護法案のことにしても、4大新聞のうち朝日毎日が反対、読売産経が賛成の立場をとったようです。したがって町内のよしみで昔から購読している毎日新聞は、学者や文化人を使って連日反対の大キャンペーンを張っていました。
 しかし、そのキャンペーン記事のどれ一つとして、私の心に響かなかったのです。部分的にうなずける点はあっても、どれもが、同盟国との間の軍事機密保持の必要性を全く顧慮しない一面的な全否定論ばかりに思えたのです。「羹(あつもの)に懲(こ)りてなますを吹く」ように、弊害ばかりを誇張して並べ立てられると、まるで、軍事機密など漏れても平気だ、スパイ天国で結構だと主張しているかのようで、途中からちょっと臭いを嗅ぐだけで読む気をなくしてしまいました。
 私はあまりに共感のわかない意見ばかりを立て続けに読まされると、憂鬱で気が変になりそうになるのです。その人たちが自信たっぷりで、しかも正義感に駆られて意見を述べているかのように見えるだけに、ひょっとして自分の考えは間違っているのではないかと、結構不安になるのです。
 しかし、たとえ自信たっぷりに見えていても、その人たちも、私と五十歩百歩で、かなりいい加減なんだということも、長い年月をかけてわかるようにもなってきました。ですから結局、他人の意見に承服できないときは、承服できないという自分の感覚を大事にするしかないのだと思うようになりました。
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▲いちばん承服できないのは、 責任ある立場に置かれた場合への想像力を欠いた空論
 そして、私がいちばん承服できかねるタイプの意見といのは、ある問題について、もしも自分がその問題に対して責任ある立場に立たされた時に、自分ならどう考えるか、どうするか、何ができるか、といった視点の全く欠けた意見です。たとえ責任ある立場になくても、そういう視点からの想像力を働かせようとしないかぎり、何を言っても無責任な空論になってしまうのです。
 とりわけ政治家の場合、野党的な立場にあっても、あらかじめそういう視点から考えることがなければ、まともな与党批判などできるものではない、と私などは思うのですが、例えば民主党の政治家たちにはそれが満足にできていなかったとみえて、政権を取ってからコロッと言うことが変わる人が続出しました。
 その最悪の典型が鳩山さんの「学べば学ぶほど沖縄基地海兵隊の抑止力の重要性が判りだした」という発言です。首相になって1年ほど経つのに、まだこんな間の抜けたことを言っていたのでした。そんなことぐらい政権を取る前からわかっておけよとどなりつけたいところなんですが、もともとはそんなに頭の悪い人ではないはずなのに、ある種の知識人たちの色に染まってしまうと、普通の国民なら簡単に理解できていることが、わからなくなってしまうようなのです。
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▲心に響いた意見はただ一つだけ
 秘密保護法案についても、新聞社の色に染まらないただ一つの例外は、山田孝男という記者が「風知草」というコラムに書いた文章でした。
 それには
 敵に漏れれば国の安全が脅かされる情報を国が秘密にするのは当然で、国を守るために情報漏れの処罰法を整えるという政府の意図が本質的に暗黒だとは思わない、軍事は邪悪、秘密は暗黒という過度の思い込みを改める必要がある、法案の問題は多いが、規制が緩いままではかえって社会の安全が脅かされる側面もある
 と、きわめてまっとうに思える主旨のことを興味深い事例を交えながら説いていて、それだけが私の心に響いたのです。
 この記者は、いつもではありませんが、たまにいいことを言うのです。それに、全社を挙げて反対ムードの中でこんな発言をするのはさぞかし勇気がいっただろうとも思います。そして、つい1週間ほど前、この記者に対して、「日本記者クラブ賞」というのが与えられたという報道に接しました。
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▲バランスのとれた健全な感覚を持ち続けたい
 法案のいちばんの問題点は、要するに、政治家や役人が自分たちに都合の悪い情報を隠そうとして悪用することが懸念されるわけですが、その弊害と、法案の必要性とを天秤にかけても、やっぱり必要性の方が重いのですから、大筋、成立させる方向で、同時に弊害の除去にも努めるというのがバランスのとれた健全な感覚のように思えてならないのであります。そういう感覚をつねに持ち続けたいのであります。
 むかし、破壊活動防止法案というのが提出されたときも、今にも暗黒社会になるかのように騒ぎ立てた人たちがいましたが、今ではそんな法律のことはすっかり忘れられています。暴力や武力で世の中を変えたいとする人たちには不都合な法律かもしれませんが、一般市民には何の関係もない法律です。飲み屋でうっかり話もできなくなる、と大げさに言う人もいますが、秘密保護法も、私など取り締まり対象としては一生無関係であろうと思います。

 断っておかねばなりませんが、ここで私がさせてもらっている話というのは、「子守の歌もあだにきいてはならない」というところまでが信心の話でありまして、そこから先に生じてくる個々の感想は、あくまで個人の感想であります。
 子守の歌もおろそかに聞かないくらいですから、信心する者が、秘密保護法論争のこともおろそかにせず、関心を持って向き合うのは当然のことでありますが、その結果私とはまた違った感想を持つ人がいるかもしれません。実際、親しくしている他教会の信者さんや同級生にも共産党支持の人がいるのであります。
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▲退屈されそうな話にせめてもの色つけ
 また、こんな話で退屈なさっている方がおられるかも知れません。ここで話をさせてもらうことが決まってから、何かお役に立つ話がさせてもらえるよう一生懸命お願いし続けてはきましたが、日にちが迫ってきてもなかなかよい材料が見つからず、近頃見聞きしたことの中で、自分が最も興味を惹かれた事柄を取り上げて話をさせてもらうことぐらいしか思いつかなかったのであります。
 それでも、その御用を通して助けては頂いていると思います。福田美亮先生と堀田庄三さんとの関連に気付かせてもらえたのは、やっと一通りの筋書きができたあとの、4月29日、畝傍教会の大祭から帰って来た後でありました。また、山田記者がまことによいタイミングで受賞したという報に接したのも、その日の朝でした。と言うより、私の方がよいタイミングで山田記者のことを取り上げさせてもらえたと言うべきでしょう。退屈されそうな話に、そういうことでせめてもの色をつけてもらったような気がしました。
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▲我々自身も国家に尽くしたい
 それともう一つ、私は今日の話を単に豊田喜一郎が偉かったという話でおわらせたくはないのです。功績の大小にかかわらず、我々自身が生きる姿勢として、国家のために尽くしたいという思いを、必ずどこかに持ち続けていたいと思うのであります。
 「修身斉家治国平天下」と言われますように、家族親族友人知人のために尽くしたいという思いから、自分の属する地域や組織のために尽くしたいという思いへ、更には国家や世界のために尽くしたいという思いにまで順番に広げていくということが大事なのでしょうが、私は、自分がいかに微力でありましょうとも、それらの思いを全て同時進行的に持ち続けたいと思うのであります。
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▲「治国」を軽んじる人々に共感できない
  「天が下に他人というものはなきものぞ」というのは、このお道の究極的な人間観です。「平天下」を目指すというのは、教団が標榜する「世界真のの平和と人類の助かり」を目指すことに通じます。
 このことにおいて私は、「治国」を軽んじて、いきなり世界に貢献するのだとか、人類愛に生きるのだと標榜する人たちにも、あまり共感できないのです。
 誰とは特定できないのですけれど、これまでに私が見聞きした断片を繋ぎ合わせたイメージとしましては、そういう人たちは自分たちのことを、いわゆる「偏狭なナショナリズム(愛国心)」にとらわれない地球市民であるとか、世界市民であると名乗り、「国益」よりも「世界益」を追求すべきだと主張します。
 そういう人たちの多くは、いわゆる「自虐史観」に強く影響されており、国家というもの、とりわけ自国である日本国を憎み恥じでいます。そして、国旗国歌をも毛嫌いしているのです。したがって、学校の式典で「君が代」を歌わない先生も出てきます。
 翻って私は、こういう日本を愛せない人、日本に誇りを持てない人を好きになれないのです。
 自国を愛し、まず自国の繁栄を図るというのは、不当な手段を使わぬかぎり、ごく自然なことです。したがってどんな国の人でも愛国心を持っています。日本よりはるかに「恵まれていない」と思えるような国の人たちでも、愛国心と自国に対する誇りを持っているらしいのに、日本人だけ愛国心が著しく弱く、自国に誇りを持っていないというような調査結果を何度か見聞きしたような気がします。
 それは敗戦後の占領政策と、それを忠実に受け継いだ人々による戦後教育と報道の成果であります。日本人が再び自分たちに対抗することのないように、精神のある重要な部分を骨抜きにしようとした占領軍の意図が見事に実を結んで、「愛国しない人々」を大量に生んでしまったのであります。
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▲国旗国歌が象徴するのは、国の全歴史と今ある国全体
 式典で国旗を掲げたがらず、国家を歌いたがらない先生が、もしも日の丸や「君が代」があの「忌まわしい戦争の記憶」に結びつくものだから、などという理由で拒んでいるのだとしたらおかしいと思います。国旗国歌が象徴しているのは、特定の記憶や歴史ではなく、良いことも悪いことも全部含めて、国の全ての歴史及び今ある国全体を象徴するものだからであります。
 仮に、戦時中に日本軍からひどい仕打ちを受けて、日の丸を見るとその時の記憶が甦り怒りが込み上げてくるという外国の人がいたり、或いは、家族が日の丸の旗のもとに戦わされて戦死した記憶が呼び起されてつらいという遺族がいたとしても、それは日の丸のせいではありませんし、デザインを変えて済むという問題でもないと思います。ましてや、直接関係のない学校の先生が、そんな人たちの気持ちを勝手に忖度して国旗掲揚を拒んだりする必要などさらさらないと思うのですが…(以前ある高校の先生から、そういうことがあるのだと聞いたことがあります)。
 国旗国歌に対して個々人の抱く感情やイメージは千差万別、しかも年月と共に変化していくものですから、そんなものに合わせて変えようがないのです。むしろ何があろうと変えずに続けていくことに意味があると思うのです。国旗国歌の歴史はまだせいぜい百数十年ですが(日の丸には前史がありますが)、それを何百年何千年と、長く続けていくほどに値打ちが増すと思うのです。また、今は一部の人々に悪感情を持たれていても、年月をかけてよいイメージがまとわりつくようにしていけばよいだけの話であります。しかも、日の丸はデザイン的にも極めて優れたものとして、大きな愛着を持つ人が圧倒的に多いと思います。
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▲皇室制度は、日本人の知恵が長年育み維持してきた独自の優れた制度
  「君が代」に反対する人々の中には、皇室制度に否定的な考えを持つ人もいるのかもしれません。主権在民の世の中なのに、なぜ皇室の存続を祈るような歌詞の国歌を歌わねばならぬのか、というわけです。
 これについても私は、戦後教育に染まっていた若い頃は、それに近い考えを持ったことがありました。しかし今では、皇室制度というものは、長年月にわたって日本人の知恵が育み、維持してきた独自の優れた制度であり、文化であり、伝統であり、日本繁栄のもとであるとさえ思うようになりました。長く続いてきたものにはそれなりのわけがあり、簡単に捨て去っていいものとはとても思えないのです。
 そしてまた、国旗国歌というものは、その国についての価値判断とは切り離して、一定の敬意を払われるべきものであるとも思います。たとえ日の丸君が代に嫌悪感を持つ先生であっても、公職にある以上、掲揚や斉唱に、業務としてきちんとたずさわるべきだと思いますし、その嫌悪感そのものが、とても偏ったいびつな思想と感性の産物だと、私には見えるのです。
 ましてや、日本という国は、他の国と比べても、総合的に見て、そんなに悪い国ではないと私は思っています。むしろ良い国のトップ・グループに入るのではないかとさえ思います。私など、まずそのことを感謝せずにおれないのであります。欠陥も数々あるだろうけれど、それは時間をかけて改めていけばよいことだと思うのです。
 そして、豊田喜一郎のように、まず国の産業を活性化し、国を富ませてくれた上で、その上でと言うか、或いは同時に世界にも貢献するというあり方が、私にはとても好ましく思えるのであります。

 今回は、日頃の私の生活に大きな比重を占めるテレビやパソコンとの付き合い方や、豊田喜一郎さんのドラマなどを観て考えめぐらしたことなどについて聞いていただきました。
 自分では、この数か月の間に、「へーそうだったのか」と面白く感じた話や、それらのことをきっかけにして新しく考えめぐらしたこと、例えば国旗や国歌のことで考えたことなどについて聞いていただいたのでありますが、自分が面白いと思うことを、必ずしも他人が面白がるわけではないということを、いやというほど経験していますので、もしもそういう方がおられるならば、ゴメンナサイと謝るしかありません。
 いずれにいたしましても、お互い、これからも元気で長生きさせて頂き、世のため道のため子々孫々のため、少しでもお役に立たせてもらえるよう、おかげを蒙ってまいりたいと存じます。そういう思いだけは、これからも皆様と共有していきたいと切に願うのであります。(拍手)
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談話室より
 教会長より
 思えばここ何十年、個人的な問題で他人と言い争ったことは一度もありません。ということは、個人生活においては、対人関係に悩むということも今は少ないわけで、その時その時の切実な心の葛藤の有様を語るとなると、つい社会や政治の問題を取り上げざるを得なくなるのです。
 社会や政治の問題となると、同じ信仰を持つ者同士でさえ意見が対立してしまうということに対しては、まさに「神慮は深遠にして人知の及ばざるところ」とある通り、何か大きな目論見の中で泳がされているという風に感じます。
 それにしても、新聞紙上などにおいて、善意の人たちや賢げな人たちが正義感に燃えて主張することが、どうしても自分には受け入れられないというようなときなどは、相当なストレスになります。しかし、それでも自分の心に本当に響かない限り受け入れないという態度を維持することが、結局いちばん天地宇宙の目論見にかなうことにつながるのではないかと考えています。
 また、せめて意見の対立が憎しみに変わることのないよう努めたい、と口では簡単に言えても、左右の対立となると、それがなかなか容易ではないように思えるのは、それが単なる意見の相違ではなくて、人間性の相違といったような、もっと深い根っこがありそうに思えてしまうからなのかもしれませんね。。

 もう一つ、「治国平天下」という言葉は、本来の意味はもっと狭い範囲を指し示している(せいぜい中国全土)と思うのですが、敢えて範囲を広げて解釈をさせてもらいました。

 T.O さん(男 教会長 72歳) H.26.12.27
 先生のご教話は、いはゆる説教の臭気なく、現代といふ複雑な問題が、一介の(失礼!)宗教者の中にも及んできてゐる情況を、美事に把へ、常にご自分の正直な感じ方を大切にして、世の風潮に必ずしも迎合することなく、実によくバランスのとれた思考と信心の発想による分析がなされてゐるのに、いつも感心してゐるところです。「ドラマで考えたことなど」は、先生の特色がよく表出された、美事なお話の内容となってをります。
 さて、昭和二十年八月のあの日本の敗戦時から、七十年も経つといふのに、いまだに占領体制といふアメリカ側による追撃戦争に、しこたまやられてしまひ、その桎梏からいまだ抜け出すことができずに呪縛されてゐる国家体制の現状、そして国民意識の体たらくには、ホトホト慨嘆せずにをれませんね。
 朝日新聞における福島原発事故の吉田所長についての誤報、慰安婦問題における吉田清治発言を捏造発信しつづけてきた報道姿勢、それが広く海外にまで取返しのつかぬ日本国と日本人の不名誉と国益を害する結果をもたらしてゐる深刻な問題、それはアメリカ占領軍総司令部のプロパガンダと支配論理を日本自らが踏襲し再生産しつづけてゐるといふことに外ならないことになります。そして、日米同盟といふ美名のもとに、現在でも、アメリカの底意は、第二次世界大戦終了時における勝者としての日本占領意志と体制(体勢)を覆すことなく定着させ続けようといふ底意がありありと看取されえます。その意味では、日本の敵は、中国、韓国、北朝鮮でありつつ、最大の敵は、依然としてアメリカと言はねばなりません。然もなほ日本一国で国の安全を保全できない以上、やはりアメリカとパートナーを組まねばならぬといふアンヴィヴァレンツな愛憎関係がずっとこれからも付きまとふわけです。
 戦後七十年、アメリカとのつき合ひの中で、半面において、どれほど日本と日本人の心を歪めさせてきたことか、それをまた自覚せぬ人の、また何と多いことか。自民党の議員、とその長老といはれる人の中にも、戦後的価値観に汚染された人物が少なくありません。日本の保守とは何か、保守党を認ずる自民党すら、迷妄しているわけです。さういふ意味では、野党の反日的発言者よりも、更に罪は重い。即ち河野洋平はもとより、小泉純一郎、小沢一郎、中曽根康弘、野中広務、福田康夫、加藤紘一、宮沢喜一、細川護熙などは獅子身中の虫といふか、戦後政治の中でどれほど害悪をもたらしたか――。そして彼らの影響力による現職国会議員も少なくないわけで、さういふ意味では、同じ自民党と言っても、あれこれ見回しても、安倍晋三氏しかゐませんね。安倍政権ができるだけ長く続くのを祈るばかりです。戦後百年に垂んとするこの機を逸することなく、まさしく、<戦後レジーム(体制)からの脱却>を成し遂げてほしいと思ひます。そして、またしても思ふことは、戦後の七十年を費やしても、日本人の本有をとり戻すいふことは、仲々むづかしいといふことであります。それほど深い深い傷を負ったといふのが、かつての戦争であり、昭和二十年とその後の占領経験であったといふことであります。やはり戦争とは、何としても勝たねばならない、負けてはならないといふことを、つくづくと思ひます。
 いま、あらためて、私は大川周明を読んでいます。といふのは、当の日本人ですら、かつて、なぜ日本はあのやうな戦争をしなければならなかったか、といふ歴史の必然と悲しみ――本当の日本の歴史を知る人が極く少なくなってゐるといふことがここにあります。
 あの昭和十六年十二月開戦直後、政府は戦争の目的とそこに至った経緯を、広く国民に対して論理的実証的に説明するため、大川周明をして、NHKラジオに講演させてをります(昭和16年12月14日~19日)。それが後に単行本として刊行されたのが、『米英東亜侵略史』といふものですが、読み進んで行きますと、世に右翼といふレッテルとは全く異なる、実証性に裏づけられ、当時の日本と日本人の悲劇と、それを乗り越えるべく、世界における日本の歴史的使命を語って勇躍せしめる達意の文章として述べられてをります。
 あの大東亜戦争は、無謀な侵略ではない、日本はなぜあのやうな戦争を遂行せざるをえなかったか、世界史的運命の流れのなかで果敢に果たさうとした日本の悲劇が諒得せられます。私があの戦争の意味を、日本人の立場において目覚めさせられた最初は、竹山道雄の『昭和の精神史』であり、次いで、林房雄の『大東亜戦争肯定論』でありましたが、その後において、大川周明を知ったことになります。いま、再読して、深く了得するところの深いものがあります。現在もNHKはじめ報道機関の連中は、得々として「太平洋戦争」といふアメリカ側の称呼を口に出して、恬として済ましてゐます。中曽根といふ人は、首相になってすぐの談話で「大東亜戦争」と言って、マスコミに突つかれるとすぐ「太平洋戦争」と言ひかへ、靖国参拝を中国から文句をつけられるや、翌年からは参拝しないといふ返り身の速さを示してゐます。
 かういふ態度が一番悪い。国が国として立つ立国の腰を折って、内外に日本の面目をつぶしたわけでした。私はテレビを見ながら、「太平洋戦争」といふ音が聞こえてくると、そのつど「チガウダラウ」と舌打ちをして愚痴ってゐます。――何とも、をか(可笑)しい始末です。

 教会長より
 恥ずかしながら不勉強で、O先生が列挙された書物を1冊も読んでいませんが、恐らく実際は、日本の偏向知識人やマスコミが、いかにも頭から決めつけてかかりそうなイメージとは、ずいぶんかけ離れた内容なのだろうと思います。
 しかし、敗戦により国民の精神の根幹が深く蝕まれたとはいえ、古来の敗戦のイメージからすれば、これでもまだ全体的なダメージは奇跡的なほど軽い方で、その点は感謝してもいいのではないかと思います。そして今からでも、国民の精神が真に立ち直ることは不可能ではないとも楽観しています。
 靖国問題というのは、これも残念なことに朝日記者に端を発したことで、外国の干渉を呼び込んでまで、自分たちの独善的な政治信条もしくは祖霊祭祀観を押し通そうとした典型例と言えます。Å級戦犯(判決の妥当性はひとまず横に置くとして)のみが刑死後も免罪され得ないという考え方は、果たして妥当なのか。せいぜい多様な考え方の一つに過ぎないと、私は思うのですが…。

 教会長より H27.6.20
 近頃の安保法制論議をめぐる新聞(私方は「毎日」)の執拗な安倍政権たたきにはホトホト嫌気がさしていますが、悠長な憲法論議を続けるうちに、国の危機管理が後手にまわり、憲法守って国滅びるというような事態を招きかねません。
 それにつけても、この前お送り下さった貴先生の「国の安全が最高の法」という一文は、三十年前に書かれたものとはとても思えぬほど時宜にかなったものに思われますので、「談話室関連資料3」として別途紹介したいと思います。
 安保関連法案にかぎらず、何かの法案が提出されると、必ずその「悪用」や「弊害」を懸念する反対論が出てきますが、それも度を過ぎると何も決められなくなり、「善用」すなわち新たな事態への「適切な対処」すらも不可能になってしまいます。
 法律というものは、最初から身動きの取れないような枠をはめてしまうのではなく、たとえ「悪用」の懸念はあっても、ある程度運用に幅を持たせるしかないと思います。そして、時の政権の裁量が「善用」であるか「悪用」であるかの判定は、選挙民に委ねるしかないと思うのです。
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