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金光教高田教会、我が信心を語る
17 「人間力」について
大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。
もくじ
▲ 夢のような生活も、慣れればそれが当たり前
▲ 一カ所ぐらいは快適でない場所を残しておくのも悪くない
▲ 酷暑ならではの楽しみもある
▲ いかほど環境が整っても、仕事や学業にまつわる悩みは尽きない
▲ 神にすがれば必ず助けてくださるが、決して楽はさせなさらぬ
▲ 子弟の学業についての悩みも、教祖の時代からあった
▲ 結局ものをいうのは総合的な力
▲ 好きなことや得意なことに打ち込めるのが、総合力を養う上で一番幸せで、効率がよいのだが
▲ 総合力の中でいちばん大切なものは「徳」である
平成二十二年九月二十二日 奈良県 桜井教会にて
夢のような生活も、慣れればそれが当たり前
 気象観測史上最高の猛暑からやっと一息つかせてもらいました。
 八月の始めごろの月例祭で、とびきり暑いのもせいぜいあと十日、元気な心で修行させてもらいましょう、などとえらそうなことを言っていたら、十日間どころか強烈な残暑が長く続きました。教会の前のつつじの一部が枯れてしまうほどの酷暑でした。こんな予測の中にも、天地のお働きに対して高を括るという、一種の思い上がりがあったかもしれません。
 しかしながら、今は有難いことに、どれほど暑かろうと、それらを凌がしてもらう手段を私たちはいくつも持ち合わせています。外に出れば確かに暑さは厳しいのですが、屋内で快適に過ごそうとすればいくらでも可能です。
 今ほど暑くはなかったとはいえ、ほんの四、五十年前までは冷蔵庫もエアコンもありませんでした。扇風機さえ貴重品でした。一家に一台あればいい方でした。昭和二十年代、教会にはまだお広前にさえ扇風機はなかったと記憶しています。
 今では部屋ごとにエアコンがとりつけてあって、よく使う部屋には扇風機も置いてあって、滞在時間に応じて使い分けています。つまり、四、五十年前には考えられもしなかった夢のような生活を送っているわけです。その点では、皆さんの家も似たようなことだろうと思います。
 けれども、そんな夢のような生活も、慣れればそれが当たり前になってしまいます。そして相変わらず不平不足の心の方が先に立ちます。
 天候、つまりは天地のお働きに不足を言う前に、せめてそうした利器を使わせて頂くたびに、感謝の心を忘れないようにしたいものです。同時にまた、それらがあって当たり前と思う心の奢りや、安逸をむさぼる心というか、それらの利器に過度に依存してしまうことへの警戒心を、つねに失わなうにしたいと思っています。
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一カ所ぐらいは快適でない場所を残しておくのも悪くない
 一部屋だけまだエアコンのついていない部屋があります。二階の、今は主に寝室として使っている六畳の畳の部屋です。たまにしか帰って来ない子や孫が寝泊まりする部屋にはちゃんとついているのに、そこだけがまだなのです。あらかじめそのための配線もしていなかったんです。ベランダに面しているので、ガラス戸を開ければ空気の通りはよいのですが、それでも夏の暑い夜は寝苦しいものです。クーラーが欲しいことがたびたびあります。配線はしていなくてもその気になれば取り付けられるにもかかわらず、ズルズルと先延ばしにしながら、扇風機だけで凌いできました。
 今年は特に厳しかったのですが、それでも汗ずくになりながらも、なんとか凌がしてもらいました。そうするうちに、家の中に一カ所ぐらいは快適でない場所を残しておくのも悪くないかと思うようになりました。修行と言うほど大げさなものではありませんが、それくらいの辛抱はさせてもらおうという気になったのです。信者さんの中には、今でもクーラーも扇風機も使わない方がおられるので、それくらいのことは何の自慢にもならないのでありますが…。
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酷暑ならではの楽しみもある
 一方、酷暑が与えてくれた悦びもないではありません。この夏は殊のほかソーダ類をウマイと感じました。夕食時のほんの少量のビールがおいしいと感じられるのはもちろんのことでありますが、年中毎朝起き抜けにチビリチビリと摂取するコップ一杯の白湯を、この時期だけカロリーゼロの冷えたサイダーに変えてみましたところ、それがじつに快感で、新しい楽しみとなりました。白湯も結構好きなんですが、サイダーごくごくは、この酷暑の時期にだけ味わえる生きる悦びだ、と言っても大げさには思えないのです。
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いかほど環境が整っても、仕事や学業にまつわる悩みは尽きない
 ここまで話させてもらったたことは、要するに、人間の体温調節と水分補給にまつわる話に過ぎません。人は、そのようにして体温調節をしたり水分や栄養を補給しながら、何をしていくかということが大事なんです。毎日の仕事や学業がちゃんとできていくことが大事なのであります。
 いかほど生活環境が整っても、今も昔も、仕事や学業にまつわる悩みは尽きることがありません。信者さんご自身や、その人たちが祈りをかける家族親族の中でも、一生懸命やろうとすればするほど壁に突き当たる人たちや、仕事をしたくても、仕事そのものがなくて悩む人たちが幾人もおられます。
 私自身の仕事は神様の御用をさせてもらうことでありますが、それをさせてもらいつつ、それが立派に勤まったと思えたことは一度もありません。つねに自分の無力さ、いたらなさを思い知らされてばかりです。
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神にすがれば必ず助けてくださるが、決して楽はさせなさらぬ
 神様にお願いすれば、或いはお結界でお取り次ぎを頂きさえすれば、そのような悩みはたちどころに解消すると言えれば苦労はしないのでありますが、簡単にスカッと解消する悩みなど、そうそうあるものではありません。
 それなら、神様に願うことなど何の効果もないのか、ただの気休めに過ぎないのかと言えば、私自身の経験からいたしますと、けっしてそんなことはありません。いろいろと助けられて、かつがつここまでやってこれたという切実な実感があります。信心して神にすがれば必ず助けてくださるが、決して楽はさせなさらぬ、というのがこれまでに得た実感です。だからこそ祈りすがることがやめられないのです。
 したがって神信心するということは、単に自分の願い通りに事が運ぶということだけに意味があるのではなく、願い通りに事が運ばなくて、さんざん苦労することも含めて意味があるのだと考えざるを得ないのです。まさに「信心は辛抱」なのですが、それは、辛抱すれば必ず末で幸せが得られるということと同時に、辛抱そのものにも意味があるということなんです。それこそが修行だといえば、確かに修行になるのでありましょうし、この世で課せられた課題と取り組むということでもあるのだと思います。
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子弟の学業についての悩みも、教祖の時代からあった
 私の話のテーマは、機会主義とでもいいますか、材料選びに行き詰まったあげく、たいていその時の世相や身辺のできごとにひっかけてものを申すということになりがちであります。今日も気候の話から入って、身辺で起きた子弟の学業にまつわる話をさせて頂きます。
 学業についての悩みとか願いとかいうことになりますと、信者さんの中には、子や孫の成績向上、入試合格を願う方たちが多くおられます。自分が勉強するのではないだけに、よけいに気がもめることもあろうかと思います。教典をひもときますと、教祖様の時代にすでにそのような悩みが始まりかけていたことが読み取れます。

「子供が学校に行き、もの覚えが悪いので、そのことを願ったところ、
 『そちらの子は先生にするのか』
と問われた。『いや、そうではございません』と申したら、
 『まあよい。なるようになる』
と仰せられ、また、
 『子供は親のとおりをするからなあ。よく心得ておれ』
と仰せられた」(天野喜八の伝え)

 この「なるようになる」というふうに、神様に願った上での成りゆきを深く信頼する、ということさえできれば悩まないですむのでありますが、それができずに、あれこれ気をもむというのもよくあることです。
 最近、少し遠方に住むあるお母さんからのメールに、さしたる悩み事もない恵まれた生活の中で、敢えて探すとすれば、中2の娘の成績が悩みであると言うのがありました。部活も休まず、健康で友達もおり、スクスク育っていると思えば有難いのだが、3が二つもあるというのです。しかもそれが英語と数学という主要科目です。これだと、自転車で通える彼女が住む市内で一番の高校には行けず、ちょっと遠い二番目の高校に乗物で通わねばなりません。できればもっと点を取ることに喜びを覚えてほしい、わたしは点が取れればうれしかったがなあ、と彼女は言うのです。
 教祖様も言われるように、子供は親のとおりをするというのは大原則ではありますが、子供が親の長所を受け継いでくれなかったり、というような小さな差異はえてして出てくるものです。逆に、あんな親のようにだけはなるまいと、自分を戒める材料にしたりというような場合もあります。
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結局ものをいうのは総合的な力
 そのメールに対して私は、およそ次のように答えました。
「自分はいつも一番になれと発破をかけられて、そのプレッシャーに苦しみおびえ、そのかなり歪んだ価値観を修正するのに多大の時間とエネルギーを費やさねばならなかった。そういう経験から、子供たちや孫たちには、ごくフツーに勉強して入れそうなところに入りさえすればよいという調子で接していたら、見事なまでに、いわゆる一流大学出はまだ一人もいない。それでも、基本的には、子供がいて孫がいてくれるというだけでも有難いと思っている。その上でなお孫達も、他にいろんなこともやりつつ、そこそこの大学に入ってくれて大満足である。
 そのかわり、親子きょうだい間の間柄は良好に保ちたい、家族一族の心のつながりや結束は強くありたい、子供や孫同士仲良くしてもらいたいという気持ちが強い。
 そりゃあ、高学力高学歴に越したことはないが、結局一生を通じてものをいうのは、やはりその人間の総合的な力じゃないだろうかと思う(近頃はそれに近い意味で「人間力」という言葉も流通しているようだが)。
 男女の間柄にしても、学力学歴に大きな差があっても、総合的な力で釣り合っているように見える場合が結構ある。この場合は補完し合っているとも言えるのかもしれないが…。
 女子短大を出たある信者さんの娘さんが、阪大の理系の学部を出て、当時大学の助手をしていた男性とつき合って結婚したが、見比べてそんなに不釣合いな感じはしなかった。三十年近く経った今も、うまくいっているみたいだし…」
 などと返信しましたら、

「確かに、娘は総合力では私より上かもしれない。友達付き合いが上手い。リーダーシップがある。頭の回転が早い、にもかかわらず根気がある。勉強以外は黙々とやる。器用である。機械ものに強い。等々、これだけ揃ってるんだから、悩むのはやめる。一喜一憂するのはやめる。助かりました、ありがとう」
といった内容の返信が返ってきました。
「結局欲しいと思っていたのは、『へぇ~、○○ちゃん××高校に受かったんだぁ~』『部活やって、塾も行かんと偉いね~』という、周囲の賞賛や驚愕の言葉だったのかもしれない」
ともあり、「アホラシ」と結んでありました。
 しかしそうは言っても、こういう他人からかっこよく見られたいという欲求は意外と手強いので、一度振り払ったくらいでは消え去らないかもしれないのですが、その都度丹念に思い返していくことも大事なのではないかと思います。
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好きなことや得意なことに打ち込めるのが、総合力を養う上で一番幸せで、効率がよいのだが
 更に考えてみるのです。それなら総合的な力ってどうしたらついていくんだろうと…。これが「人間力」という言い方になりますと、精神の修養鍛練の必要性ということの比重が大きくなるような気がしますが、それはそれとして、総合力というものをもう少し幅広く考えますならば、少なくとも、自分の好きなことや得意なことに打ち込めるのが、総合力を養う上で一番幸せで、効率もよいのではないかと思います。
 ずいぶん昔、高学歴の兄が、どうしたら成績を上げられるかと、当時高校生であった弟に尋ねられて、「勉強が好きになることだ」と答える場面にたまたま居合わせたことがあったのを今でも覚えています。勉強の嫌いな人間は、少々がんばろうとしても、好きな人間にはなかなか勝てないのです。
 しかし、たとえ効率は悪くても、嫌いなことや不得手なことと取り組んでみるのも、それはそれで意味はあると思います。人間いつもいつも好きなことや得意なことだけをしていればいいというわけにはゆかず、時には嫌いで不得手な仕事でもしなければ生きていけないこともあります。そういうときでも不得手ななりに努力するなら、それだけ成長進歩することがあるだろうと思うのです。
 私自身は、勉強が好きであったことも、本当に好きなことに打ち込んだ記憶もあまりありません。また、今の仕事が得意なわけでもなく、むしろ不得手だと感じ続けてきたのですが、ただ、その仕事を通して、自分が一番気になることに、つねにこだわり続けることができたことは、やはり幸せなことであったのではないかと思っています。
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総合力の中でいちばん大切なものは「徳」である
 総合的な力ということでいま一つ忘れてはならないのは、それが単に他人との競争に勝つ能力ではないということでありましょう。他人との競争に勝つためにそういう能力をつけようとしても、心の安らぎは永久に得られません。あまり人から愛されることも尊敬されることもないでしょう。
 総合力の中でいちばん大切なものは、やっぱり「徳」と言われものであろうと思います。だからこそ「神徳を受けよ、人徳(にんとく)を得よ」と言われますように、それが信心の最大の目的であるとされるわけです。
 徳とは、言い換えれば、人の役に立ち、人を幸せにすることのできる能力といいますか、そういう実績についてまわる人としての輝きであると言えると思います。それは競争とは無関係なものであります。
 時に私たちは、他人と競争したり、他人と自分を比較したりすることに嫌気がさすことがあります。できることなら他人との比較や競争から超越して生きていきたいと思うことがあります。
 そんなとき「信心の道は、家柄も、ばか、賢いも、素人も、へだてなきものなり」(佐藤範雄の伝え)というような教えが心にしみてきます。他人との比較や競争を離れて、ただただ、それぞれなりに、お徳を頂くことだけを目指して信心させてもらえたなら、それはとても有難いことだと思うのであります。
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談話室より
 坊っちゃん(男38歳) H..22.10.26
 
 私も、歳を重ねるごとに、『人間的な総合力』すなわち『人間力』について考えることが多くなっています。
 私自身もそうですが、一般的にだいたい大方の人たちは、「えっ! もう自分がこんな歳! 信じられへんなぁ~!」みたいな感覚で、歳をとっているように思います。自分の中では、まだまだ十代、二十代の気分でいるのに、気がつけば三十代、四十代……、六十代、七十代……、と時が流れている。そんな感じでしょうか?
 そんなことを思うとき、「果たして、自分は年齢に比例して、『人間力』も伸ばせているのだろうか?」という問いかけが頭をかすめます。で、答えはと言うと、「残念ながら、伸ばせていないなぁ~」という現実にぶち当たったりするんですね。
 いろんな人やモノ、出来事などとの出会いの中で、人生の時間は流れていくんだと思います。いい出会いもあれば、そうでもない出会いもあります。いい出会いだと思っていた出会いが実はそうでもなかったり、また逆に、そうでもない出会いだと思っていた出会いが実はいい出会いであったりする場合もあります。いい出会いもそうでもない出会いも、その出会ったという事実を、自分の中でどう受けとめて、どう解釈し、どのように自分の人生の肥やしにしていくかで、『人間力』と言われる『総合力』を育むことに繋がっていくのだろうなと思います。
 しかし、人間、そうは思いながらも、様々な種類の出会いを人生の肥やしにし、人生の養分にしていこうという手前の『分解力』と言ったところで、つまずいてしまう人も多いんだと思います。その『分解力』が少々足りない、あるいは充分に育っていないばかりに、私たち人間は、悩み苦しみ、迷走を続けてしまうのも事実だと思います。
 ある人の発言や態度にただただ傷つき、苦しむだけで終わってしまうのか、あるいは、うまく前向きに捉えなおして、『人間力』の向上に結びつけていくのか、老若男女問わず、生まれてから死ぬまでの、人間に課せられた課題なのかも知れません。
 いつもいつも強い気持ちでいられるなら、人間、苦しむこともないのでしょうが、やはりそうもいかないのが人間であったりします。そういう『自分の中の人間力』だけでは乗り越えられない、及びもつかないところを、神様にすがり、仏様にすがり、乗り越えるきっかけを、人それぞれに頂けたらなぁと思います。
 
 『神徳を受けよ、人徳(にんとく)を得よ』

   心にしみ入る言葉ですね。
 

 教会長より

 いつもきちんと応えてもらえて、ほんとうに元気づけられます。
 私にはよくあることなのですが、もともとが「人間力」などという大きなテーマについて深く考えめぐらそうとしてはじめた話ではなく、身辺の些細な事柄から話が展開して、最後に表題をつけようとしてそういうテーマにたどり着いたわけで、それも表題と内容との間に少しズレがあるのを承知で、客寄せのため(?)そうつけてみました。看板にちょっとだけ偽りありというわけです。それでも、どこかに取柄を見つけて頂ければ幸いです。
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