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金光教高田教会、うどんが好きかラーメンが好きか
36金光教教典について語る
大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。
もくじ
▲ 以前の教典は文庫本より小型で薄かった
▲ おまけにマズイと思われる問題点が
▲ 占領政策で国民の意識がすっかり変わってしまった
▲ このままでは世界に通用しないのではと
▲ 教団設立時の苦労を考えると無理からぬことではあるが
▲  その一方で三代様のご態度を立派だと思う
▲ それでも他宗教に移りたいと思わずに来れたのは幸せ
▲  珠玉のような教えの力
▲ 積み上げてきた歴史の力
▲ 百年目についに新教典。仮小屋から本邸宅へ
▲  その前に教祖伝「金光大神」という別棟も出来ていた
▲ 旧教典は言行録の第三類に移された
▲ 抄録ができたことも画期的。しかし…
▲ 教典や儀式拝詞が整えられても、それだけでは教勢は伸びない
▲ 真面目でまともだとかえって伸びない?
▲ 「天地書附」の信心が自身の心の根本の要求と合致
▲ それに気付かせてくれたのが高橋正雄師
▲ 神様には立派なこと立派でないことの区別もないのでは
▲ やっぱり感謝が土台になる信心
▲ そういう生き方の積み重ねで今の幸せを得たのだが
▲ 旧教典のもとでも立派な信心が育ち、多くの教会が生まれたが
▲ 今は今で、今の問題に真剣に取り組むしかない
令和二年三月二十二日 奈良県 桜井教会にて
 ここでの話が、金光教祖様の教えがあまり出てこないことがしばらく続きました。決して教えを軽視しているわけではないので、ここらで教典の教えについて集中的に取り組んでみたいと思います。
以前の教典は文庫本より小型で薄かった
 教祖様のご帰幽後百年目の昭和五十八年(1983年)まで、このお道の正式の教典は、分量的には文庫本より更に小型の版でも60ページぐらいに収まってしまう程度のものでした。言い換えれば、チャチなものでした。
 若い頃は、それが仏典や聖書に比べてあまりに貧弱な気がして、ちょっと気が引けていました。
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おまけにマズイと思われる問題点が
 おまけに、いかにもこれはマズイと思われる問題点がもう一つあったのです。それは数カ所に及ぶ皇室尊崇の文言です。それは私が皇室を敬わないという意味では決してなく、むしろその逆なのですが、しかし、そのことが「宗教的真理」として掲げられていることが私を悩ませたのです。
 とりわけ、一番目立つ場所にある「神誡」の第一行目に、「神国の人に生まれて神と皇上(かみ)との大恩を知らぬこと(を戒める)」という文言が来ることが、当時の私にとっては大問題でありました。
 昭和二十年の敗戦にもかかわらず、皇室制度が存続しえたことを、私は我が国にとって大きな幸運であったと思っています。それは単なる幸運などではなく、当時の多数の国民の強い意向と、多くの人々の尽力の賜でありました。何よりも昭和天皇ご自身のお徳がもたらしたものであったと言えます。そして大多数の国民は、その後も皇室に対して一定の敬意は払い続けてきました。
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占領政策で国民の意識がすっかり変わってしまった
  にもかかわらず、占領軍がもたらした戦後民主主義や東京裁判史観と言われるものが、大多数の国民の意識をすっかり変えてしまったのです。敬意は払ったものの、学校教育やマスコミなどの論調によって、国民の皇室観や国家観はすっかり変質してしまい、「神国」だの「天皇の大恩」、つまり「皇恩]などという言葉や発想は、最も忌避されるものとなってしまったのであります。
 そのことを浮き彫りにする典型的な実例と言えるような事件が、今から三十年ほど前に起こりました。私と同い年で今も精力的に活躍する森喜朗氏が、首相時代にある会合で行なった長い長い挨拶の中に、日本は天皇を中心とする神の国であるという意味の言葉があったという、たったそれだけのことで大騒ぎとなり、野党やマスコミから猛烈な袋だたきにあったことが、いまだに強く印象に残っているのですが、まさにそれに近い発想の文言が、教典の一番目立つ位置にデンと据えられていたわけです。
 占領軍の巧妙な洗脳工作によって生み出された戦後民主主義なるものと、そこに生じた国家観や歴史認識がいかに病的で,多くの問題点をはらんでいるかということについては、折に触れて言及したいと思いますが、今は深追いしません。
 いずれにしましても、そんな戦後の教育を受け、戦後のマスコミの言論環境の中にどっぷりつかり続けた私に、旧教典が、これはいかにもマズイと思わしめたのは当然の成り行きでありました。
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このままでは世界に通用しないのではと
 更にもっと問題なのは、そもそも日本の皇室の恩を説くような文言を含む教典が、世界に通用する普遍的な宗教の教典と言えるのか、なり得るのかということでした。
 私には、それだけでもう、これがこの道の教典です、と胸を張って人に差し出すのがはばかられるものだったのであります。
 あるとき、いまはもう亡くなられた戦中派世代の先輩の先生方に、その問題を提起してみたことがありました。するとその中のある方が、それは各国の元首に置き換えればすむ、とこともなげに言われたのですが、その時はそれ以上言い返せるような適切な考えが浮かばず、そのままになってしまいました。
 今の私は、国家の安泰と発展を祈る祭祀を司られる天皇の「皇恩」なるものを決して否定はしませんし(それだけではまだ感謝が足りないことになりますが)、日本国の独自の発展は、皇室の存在を抜きにしては考えられないとも思うようになりました。
 したがいまして、日本の皇室の独自性とか、尊崇される理由がそのまま他の国々の元首にも当てはまるとは到底思えないのであります。
 しかし、そのこともまた別問題で、私がいちばん問題に感じていましたのは、そういう「国家元首の大恩」とやらを、神様の大恩と対等に並べるような教典であっていいのか、ということなのでありました。
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教団設立時の苦労を考えると無理からぬことではあるが
 しかし、これらは教祖様ご自身の教えと言うよりは、御帰幽後、その時代に教団設立の認可を得るために苦心した人達が、よかれと思い,或いは心の底からそう信じて盛り込んだ文言であったと考えられます。時代背景を考えると無理からぬこととも思われるのです。
 当時、教団としての認可を得るための体裁を整えるべくそれを掲げた人達は、これで「信忠孝一本の道」として、大手を振って布教していけると安堵し、胸を張ったに違いなく、それが時代の変化と共に大きな足かせになるなどとは想像も及ばなかったでしょう。
 その旧教典が使われなくなってもう四十年近く経つというのに、今更こんなことを蒸し返すのもどうかとは思うのですが、この問題を外部から指摘される前に(もうとっくに指摘されてしまっているかもしれませんが)、内部の者から言っておきたかったのと、このことで私のような戦後の世代の人間がどれだけ悩まされることになったかを、忘れ去られる前に一度は言い残しておきたいのです。
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その一方で三代様のご態度を立派だと思う
 その一方で、そんなことで悩むのは、本当は浅はかな考えではなかったのか、と反省させられるような話も伝わっています。
 三代目の教主様は、早くに二代様である親様を亡くされて、十四歳の時から本部広前のお結界に生涯座り通され、生き神様と慕われなさったのですが、生き神様とは、まさにこういう人のことをいうのだな、と実感できる風貌をしておられました。
 お結界でお届けをしても「はいはい」と受け答えをなさるだけで、ほとんど何も仰有いません。それだけに、ごくたまに発せられる「お言葉」にはたいへんな重みがありました。昭和三十年代に「文藝春秋」が掲載した「日本の宗教家十人」というグラビア特集では、その十人の一人に選ばれておられました。
 その三代様に、敗戦後間もない昭和二十二年の頃、ある新聞社の若い二人の記者が、面会していろいろ質問した中に、こんな遣り取りがあったといいます。

 「こんな時勢になって、今後金光教はどんな方針で進まれますか」
 「日本再建であります」
 「日本再建とは?」
 「天皇陛下が御安心下さるようにさせていただくことです」

 これはこれで、戦前も戦後も全くブレることのない、理屈などを超えた誠実な受け答えだなあと実感させられました。だからこそ、物事はすべて白か黒かにはなかなか割り切れないのであります。
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それでも他宗教に移りたいと思わずに来れたのは幸せ
 そして若い頃の私が、教典に対してそのような問題意識をかかえながらも、それでいて他の宗教の方がよかったとか、他の宗教に移りたいとか、一度も思わずに来れたのは、とても幸いなことであったと思います。
 理由として思い浮かぶことが二つあります。
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珠玉のような教えの力
 一つは、金光教祖様の個性と、そこから生まれた教えの持つ不思議な力です。薄っぺらい小冊子の中にも、我々を惹きつけて止まない珠玉のような言葉の数々が含まれていたからであります。
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積み上げてきた歴史の力
 もう一つは、そこから始まって、多くの人々が神信心を求め、積み上げてきた歴史の持つ力とでも言いましょうか。
 とりわけ、昭和二十年の敗戦から、昭和三十年代にかけて、教団の中枢部には、晩年の高橋正雄師を中心として「真実を大切にする精神」とでも言うべき気風がみなぎっていました。その気風を“発見”できたことが、末端の信心環境に深刻な懐疑心を抱いていた十代後期の私に、大きな希望を与えてくれたのであります。
 そのおかげで、信心するからといって,別に自分を偽る必要はないんだ、あるがままの自分を大事にしていいんだ、と思えるようになったたことは大きな救いでありました。
 それと同時進行で、当時刊行されつつあった湯川安太郎信話集がまた、神信心における信念というもののあり方について、非常にインパクトのある指針を与えてくれ、実際にそれが実生活で行き詰まっていた私に“奇跡”をもたらしてもくれたのであります(ホームページ,教会長の話「1おあてがいのままに」参照)。
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百年目についに新教典。仮小屋から本邸宅へ
 旧教典は、そういう問題を抱えながらも,いったん定められてしまった文言は,おいそれと削除したり変更するなどという軽はずみなこともできません。それは戦後もそのまま、三十八年間正式な教典として使い続けられました。
 そしてようやく昭和五十八年(1983年)、教祖百年祭の年、教学研究所での長年にわたる綿密な調査研究活動を経て、ついに新しい教典が刊行されたのであります。
 それは分量的にも相当分厚いもので、それまでの教典を仮小屋にたとえるなら、新教典は立派な邸宅ということになります。
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その前に教祖伝「金光大神」という別棟も出来ていた
 その新教典は大きく分けて、教祖ご自身が書き残されたものと、教祖に直に接した人達が伝えた言行録とに分かれます。

 その教祖ご自身が書き残されたものを元にして、昭和二十八年に、一足先に教祖様のご伝記「金光大神」が刊行されていました。

  このご伝記は、当時の宗教学会ではとても高く評価する人がいたといいます。その頃の教学研究所や、教団の中枢部には、大学の哲学科を主席で卒業したような人達(みな教会や教師の子弟ですが)が何人かはおられたらしいのです。その中でも飛び抜けておられたのが、高橋正雄先生だったというわけです。
 しかし、学会で高く評価されるということは、とりもなおさず、あまり大衆向きではないということでもあります。
 私自身も、いつも拾い読みばかりで、読み通す根気が続きませんでした。はじめから終わりまできちんと読み通したという記憶がありません。それでもとても重宝しましたのは、終わりの五分の一ぐらいのところに、いま言行録に収められている教えの一部が紹介されていることでした。
 その中には旧教典にはない教えが多くあり、旧教典の文言のオリジナルと思われるものも含まれていました。それらは自分自身にとっても,道の御用をしていく上にも、とても役に立ちました。
 これもたとえてみれば、仮小屋よりは数等立派な別棟ができたということになります。それ以後私は、仮小屋を避けてその別棟で過ごすことが多くなったのであります。
 それでも、布教の御用にあたるとなると、到底不十分です。足りないところは、教内のいろんな文書を動員して補っていました。教典だけを主たる拠所として布教していけるようになったのは、ようやく新教典が刊行されて以後のことであります。
 新教典の中の言行録は、教会での日常の布教教導活動において、少しずつ読み進めながら繰り返し味わっていくのに丁度よい分量なのです。忘れかけた頃にまた読み直しができるのであります。
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旧教典は言行録の第三類に移された
 言行録は第1類から第3類まで、3つに分かれています。
 第1類は、教祖から教えを受けた人達が、自身で書き残したもの、第2類は、そういう人達から聞き取り調査をして記録したものです。意外や若き日の高橋正雄師が主としてその任に当たられたといいますから、調査員としての最適任者を得られたわけであります。
 第三類としては、それ以外の、白神新一郎師の「御道案内」とか、片岡次郎四郎師の「尋求(じんきゅう)教語録」など、教団にとって重要な意味を持つ典籍類が収められています。旧教典もその中に入っています。
 私個人が受ける印象としましては、旧教典の内容を否定するのではなく、そのまま教団史の中の重要な資料という扱いで、あまり目立たぬ場所にそっと移されて、ひとまずよかったなあという感じがしています。
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抄録ができたことも画期的。しかし…
 そして今、旧教典に替る手に取りやすい典籍として使われるようになったのが、教典抄録「天地は語る」であります。これは言行録や旧教典の中から四百の言葉を選び出して、体系的に並べ、言葉遣いも現代の口語体に改めて編集したものです。
 教祖様ご帰幽後百年目、戦後三十八年目にしてようやく、これがこの道の教えです、とあまり腰が引けずに差し出せる手軽な文書ができたということは、実に画期的で有難いことでありました。
 喜んで使わせてもらいたいとは思いますけれども、不満がないわけではありません。教えの選定感覚や編集感覚に私自身とはややズレがあり、表現も、文体統一のためにはやむを得ぬこととはいえ、これは改悪だとしか思えぬところがあるのです。
 その典型が旧教典の神訓、
 「疑いを放れて広き真(まこと)の大道(おおみち)を開き見よ。我身は神徳の中にいかされてあり」
という教えです。  この教えが好きだと書いていた人を何人か知っています。私もこれは好きな教えの一つです。
 ところがこれが抄録では
 「疑いを放して広い真の大道を知れよ。わが身は神徳の中に生かされている」
となっています。以前のは、言葉の響きがとても内容にマッチしていて、それだけで訴える力を強く感じたものですが、何か気の抜けたような表現になってしまっているのです。文語体が口語体に変わることで訴える力が弱まるという問題は、キリスト教の聖書が口語訳に変わった時にも盛んに言われたことでした。
 そういうことなどもあってか、新教典からの抜粋ということでは、各教会の現場では、自由に思い思いの試みがなされているようです。
 私は私で、六百程の言葉を抜粋して、特に分類整理することはせず、バラバラにして、「今日のみ教え」としてお賽銭箱の横に置かせてもらっています。「疑いを放れて…」の教えもその中の一つですが、言うまでもなく元の文言のままであります。
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教典や儀式拝詞が整えられても、それだけでは教勢は伸びない
 このように昭和58年に教典が整備され、儀式や拝詞でさえも借り物からやっと本教独自のものに改められましたのは、多くの人々の努力や労苦の積み重ねがあってのことと、深く感謝せずにおれません。これらによって、どれほど信心がし易くなったことか、また道の教師としての御用がしやすくなったか、計り知れない恩恵を感じています。
 それならば、それからでももう40年近く経つけれど、あなたの教会の信者さんは増えましたか、と問われれば、恥ずかしながら答えは「No」であります。それでは、教団全体としてはどうですかと問われたなら、これも「No」です。
 信徒数だけで言うなら、戦前のある時期がピークであったようです。それ以後は減少の一途をたどり、今ではご本部へのお供えも減って、教団の諸活動も縮小せざるを得なくなってきています。
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真面目でまともだとかえって伸びない?
 なぜそういうことになっていくのか、主たる理由の一端は、皮肉なことに、この道が極めて真面目でまともな教団だからだと言えると思うのです。それでも、真面目過ぎるという言い方はあまりしたくありません。「過ぎる」ことなどあり得ないのですから。
 大衆というものは、概してあまり真面目なことは好まないのです。いいかげんなところがないと、かえってついていけないのです。数としては増えていかないのであります。
 この道でも、一時は流行神(はやりがみ)のようにご利益(りやく)を求めて人が集まる時期がありましたが、いい加減な人達は長続きせず結局は離れていきました。あとに残ったのは,一握りの真面目な人達だけでした。ここにおられる皆様の多くも、そういう人達のご子孫です。
 もちろん、教勢が衰えるのは、布教する教師達の力不足のせいでもあります。真面目な多くの先生方はそのことに悩みます。ほんとに真面目でまともなのかどうかは別として、私もその悩める教師の一人であります。
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「天地書附」の信心が自身の心の根本の要求と合致
 悩みはしますが、教勢が伸びようが伸びまいが、私自身はこの道によって救われ、この道に満足し、もうこの道しかないわけでして、今さら他宗教と比べてどうだこうだなどと言う気はサラサラありませんし、そんな知識もありません。知識を得たいという興味もなく今日まで来てしまいました。
 つまり、私はつねにこのお道のことしか知らないという前提で話をさせてもらっているのですが、私がそれほどにこの道の信心で満足してしまい、他のところも当たってみたいという気を起こさずに済んだのは、今にして思いまするに、私自身の心の根本の要求が、この道の信心によって充たされてしまっていたからではないかと思うのです。
 それはとりもなおさずこの道の信心の要諦を示すという「天地書附」に示された信心が、私自身の心の根本の要求にぴったり合致しているということを意味します。
 そして、書附に直接書き込まれてはいませんが「身の上のこと何なりとも、実意をもって願え」と言われるだけで、願うことの中味について、何を願えとも願うなとも、ほとんど一切の条件や制約が設けられていないことが、「天地書附」を時代を超えた神信心の永遠の指標たらしめているように思うのであります。
 敢えて条件というなら、ただ二つの条件を除いては…。と言いましても、決して無理難題を押しつけようとされるわけではありません。
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それに気付かせてくれたのが高橋正雄師
 条件の一つは、「実意をもって願え」ということでありますが、これは、心にもないことを一心に願えと言われているのではないということです。そんなことはいくら強いられても出来るはずがないのです。私はそのことが、「心の底から本気で願わずにおれぬことのみを願う」ことなのだということに思い至って、目からウロコが落ちる思いがしました。私にとってそれは革命的なできごとでありました。それで初めて、自身の心の根本の要求に気付かされたわけです。
 それ以前は、自分のはっきりした意思や願いというものを自覚できず、ただぼんやりと周囲の状況に流されるままに、それでいて様々な不安におびえながら生きていたのでありますが、はじめて、「心の底から真剣に願わずにおれぬことのみを願いながら生きる」という生き方があるのだ、ということを知ったのであります。
 そのような生き方があるということを、それまで誰も教えてくれた人がいなかったのです。それを私に初めて教えてくれたと言うか、初めて気付かせてくれたのが、高橋正雄師の言葉であり生き方でありました(師の著書「一筋のもの」参照)。師の名前が気恥ずかしいほど頻繁に出てくるのは、ひとえにそれあるがためなのであります。
 それによって初めて、私は自分自身と真剣に向き合うことができるようになりました。自分にはどういう願いが授けられてあるのか、神様はどういうことを自分に真剣に願わせてくださるのだろうかという風に、願いそのものが授かりものである、という視点から自分を見るようにもなりました。
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神様には立派なこと立派でないことの区別もないのでは
 かといって,四六時中立派なことを願っているわけではありません。正雄師の場合は「本当のことをわからせて下さい、させてください、本当の人間にならせてください」というようなまことに立派な願いで、そのことならば心の底の底から本気で命がけでも願うことが出来たと言われたのですが、私の場合は,師の願いの立派な内容よりも、「心の底の底から本気で」という願い方といいますか、願う態度の方に目を奪われたのです。
 以後私にとりまして、神信心をするということは、いたって単純な行為で、ただただ神様に心を向けて,ことの大小にかかわらず、目前のこと遠い将来のことに関わらず、その時その時で、心の底から本気で願わずにおれぬことのみを願い続けることであります。
 そしてそれほど立派なことでなくても、むしろたわいのないようなことでも、本気で願わずにおれぬことなら何でも願えるようになったことが有難いのであります。 「神様には、大きいことと小さいことという区別はない(どんなことでもおろそかに思わず願え)」という教えは有難い教えでありますが、私はそこに、「立派なこと立派でないことの区別もない」という言葉もつけ加えたくて仕方がないのです。そしてさらに踏み込んで「正しいこと正しくないことの区別もない」などとつけ加えては言い過ぎでしょうか。
 いずれにせよ、そのようにして神様に真剣に心を向けていきさえすれば、その時その時で、一人一人のレベルや抱えている事情に合せて、それぞれにふさわしい願いを持たせて下さる、と堅く信るようになったのです。
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やっぱり感謝が土台になる信心
 二つ目の条件は、やっぱり感謝です。何を願うにしろ、つねに感謝の気持ちが土台になければならぬ、ということです。「おかげは和賀心にあり」「和らぎ喜ぶ心にあり」なのです。和らぐという言葉には、人と争わない穏やかな心という意味が含まれ、おかげになるもならぬも自分の心次第という掛詞(かけことば)にもなっているようです。
 「お礼を土台に生きよ」ということを四代目の教主様がつねに強調しておられましたが、不平不満の多かった私には、これがいちばんむずかしくて暇がかかりました。それでも何とか少しは身につくようになりました。
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そういう生き方の積み重ねで今の幸せを得たのだが
 そういう生き方を続けさせてもらった結果として、今の私の大きな幸せがあるのだと思います。平均寿命を超えて、なお元気でいさせてもらえることだけでも有難いと思っています。
 同時に、まだまだ色々な悩みをかかえており、布教者としても、この「ていたらく」なのであります。
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旧教典のもとでも立派な信心が育ち、多くの教会が生まれたが
 教典というものには、私がこれまでしてきたような、ただ神様に心を向けて祈るという、単純であっても意外とむつかしく奥深い行為が、支障なくできていくようにと、手助けとなるいろいろなヒントが、集められているのだと言えます。
 教典が立派であるに越したことはないのですが、それも使う人次第で、わずかなヒントを頼りに立派な信心を身につけてしまう人もいれば、その逆もあるのです。
 その点、私が仮小屋にたとえた旧教典は、問題はありましても、一般庶民にとっては、生活用具が一通りは揃った、使い勝手の良い、なかなかの優れものであったと言えます。
 そしてそういう旧教典を拠所に多くの人々が神信心を身につけていきました。今ある教会のほとんどは、その頃に設立されたもので、その教会での信心を代々受け継いで、今の私たちがあるのです。
 つまり教典が立派になったからといって,皆が皆立派な信心ができるというわけではなく、教勢が伸びたわけでもなく、仮小屋のような教典でも、立派に信心ができた人達がいたのであります。
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今は今で、今の問題に真剣に取り組むしかない
 だからといって、昔の先生方は偉かったからその通りに見習わなければと言いたいわけではありません。ついそういう話になりやすいのですが、そんな反省が本当に実を結んだためしがありません。ですから私は、今更昔の先生方のようになれるとは思わないし、なりたくもないし、なる必要もないと考えることにしています。
 今は今で、今の問題に真剣に取り組むしかないのです。
 生きている限り、その時々に自分の置かれた状況の中で、自分がしたいと思うこと、しなければならないと思うこと,出来ると思うことをしていくだけです。それ以外に自分がお役に立てる方法はないと考えています。それはあくまで自分が自分の力でそうするのではなく、させてもらって出来ていくことだと思うからであります。
 そして、残りの人生にかけた願いは、たとえごく少数であっても、私と同じような考え方で救われていく人がいてくれるようになってほしい、ということです。そうなれたなら、私のような者でも、少しはお役に立てたことになるのではないかと思うわけです。

 どうか皆様も、今の教典をしっかりと頂かれまして、それぞれの持ち場立場で、同様におかげを受けてお役に立っていただきたいと思います。

 教典の具体的な教えの数々について何か語るつもりでいましたが、前置きだけで一回分の長さになってしまいました。許されるなら、今後も引き続いて新しい教典の具体的な教えについて話をさせていただきたいものです。
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談話室より
 S.Sさん(男 60代 海外在住)R.2.4.22

 「教典について語る」、素晴らしいですね。特に、小さいこと、大きいことに関わらず願うのと同時に、立派なこと、立派でないこと、我欲も含めて共に願うというのはいいですね。実践的です。早い話、遠慮せず何でも願え、おかげは「神が」やるということだと思います。

 以下、細かい点ですが感じたことを。。。

 第三類が旧教典だとは知りませんでした。中身が妙に充実しているなと思っていましたがそうだったんですね。
 特に、51の教組ご理解、二代白神先生著、100の金光教組ご理解、本部編、50のご理解拾遺、佐藤先生著、の計201節は一歩踏み込んだ話だなと思っていました。

 他の先生の「各国の元首に置き換えれば、、、」の趣旨もよく分かります。明治期の教団の置かれた状況もそうですし、金光教の国家には逆らわないという基本の性格もありますし。ただし、教組は「天子様の先祖はアマテラスオオミカミで、所詮は人間。天地金乃神とは次元が違う」と仰っていますが。。。 
 不敬罪のあるあの時代によく出版できたなーと思います。江戸時代も大変でしたが、明治に入り天皇制が強化されたので、より大変だったようです。

 金光大神という神号を与えられたのは3人~4人だと思います。教祖様、笠岡金光大神、片岡金光大神、高橋富枝先生。冨枝先生は女性なので、男尊女子が残っている時代なのか、金子大明神でした。教祖様とお結界での相対座を許されています。
 また、笠岡金光大神は金光町にお参りすると、必ず教祖様と食事し、帰るときは玄関まで教祖様のお見送りがあったようです。それも自発的にではなく、神様から教祖様に「そうするように言われた」とのことです。この辺りも不思議な話ですが。。。青木茂氏の本にありました。

 教典を読むと、笠岡金光大神と高橋富枝先生のお話の分量がアンバランスで少ないと思います。これらを将来付け足せればと思っています。笠岡教会と六条西教会へ行く必要がありますが。。。
 また、第一類や第二類では明治10年以降の入信の方のお話が多いように思います。この、直信でも古いお二人はやや神秘的なところがあり、教団をきちんと文化的に秩序づける必要のあった四神様と合わなかったところがあるのか、編者が教典に掲載しづらかったのかもしれません。佐藤範男先生が間に入って大変だったようです。あくまで私の推測です。

 日本もコロナウィルスで大変だと思いますが、お体にお気をつけて。

 
 教会長より
 「立派なことと立派でないことの区別」どころか「正しいこと正しくないことの区別」」さえも相対化してしまっていいのかどうか、疑問に思う方もあろうかと思います。教祖様の広前に連れ立って参った人達の中にいた小盗人に対して「もう、来るな」とご裁伝(神のお告げ)があったという話が伝わっていますが、これなどは確かに白黒がはっきりしているように見えます。
 しかし、神様はこちらの境遇や心の向けよう次第で、百人いれば百通りの対応をして下さるので、この場合も、白黒を決めつけて切り捨てることに重点があるのではないと思うのです。その盗人を救うには、一旦「もう、来るな」と突き放した方が本人の為になるとしてそうなさったのであって、決して見捨ててはおられないのだと考えています。
 第三類の内容として列挙されたものの中で、旧教典に含まれていたのは「100の金光教組ご理解、本部編」のみです。そこに名前は挙げておられませんが12の「神(慎)誡」と70の「神訓」とが加わって旧教典は構成されていました。
 戦後の旧教典にはそこに確か天地書附も掲げられていたと思いますが(もう手元に一冊も残っていなくて、写真は金光図書館でわざわざ撮ってきたものです)、手元にある戦前(昭和8年刊行)の「金光教大要」という教典も含んだ小冊子には、何故かそれも掲げてありません。チラと聞いた話では、天照大神(あまてらすおおみかみ)よりも偉い神様があってはならないので、公にすることが憚られたのだと聞いた記憶があります。
 それにしても、直信と言われる人達のことを、普通の先生方以上に、ほんとによく知っておられますね。私も知らないことだらけです。


 坊っちゃん(男 40代 ) R.2.5.12

 私たちが生きていく中で、心の支えや励みにしているものには、何があるのでしょうか?

 経典だったり、ことわざ、四字熟語、好きな本の中の一節、好きな曲の中のワンフレーズ、映画やドラマ、コント、アニメやマンガ等のワンシーン、有名人の言葉、家族・親戚・友人・知人からの言葉等々、数え切れない程、いろいろあると思います。

 それらに共通しているのは、おそらく、『分かりやすい』とか『合点がいく』、といったところではないでしょうか?

 2020(令和二)年、新型コロナウイルスの感染拡大という嵐が、世界中に吹き荒れました。

 多くの命が奪われ、世界中に大混乱が続く中、私たちにできることと言えば、手洗い・うがい、3密(密閉・密集・密接)を避ける、マスクの着用、ソーシャルディスタンス(人との距離)を保つ等々。

 こういったことにしましても、できるだけ『分かりやすく』頭の中に整理しておかないと、つい忘れたり、習慣やマナー、行動変容として定着しにくかったりといったことがあると思います。

 新型コロナウイルスで、コメディアンの志村けんさん(享年70歳)、女優の岡江久美子さん(享年63歳)が、お亡くなりになられました。

 ご冥福をお祈り申し上げますと共に、私自身、お二人共、子供の頃から大好きでしたので、追悼番組等々、いろいろ拝見していました。

 志村けんさんは、誰が見ても笑える笑い、『分かりやすい笑い』、を追求されていたことが印象的で、やはり、今見ても、いつ見ても、志村けんさんの笑いには噴き出してしまいます。

 岡江久美子さんは、『いい夫婦の日』に、夫の大和田獏さんとのインタビューの中で、いい夫婦で居続ける秘訣を聞かれ、ご自身たちはと前置きされた上で、「価値観が同じ」、あと、「いい距離感」とおっしゃっていました。

 また、岡江久美子さんは、薬丸裕英さんと17年半司会を務められた、TBSの朝の情報番組『はななるマーケット』の中で、座右の銘を聞かれ、「~らしく・~振(ぶ)らずに」、あと、「毎日が祭り!」とおっしゃっていました(笑)。

 やはり、ここでも、『分かりやすい』から心に響き、『分かりやすい』から心に残る……、といったところに繋がってくるのではないでしょうか?

 文語体であれ、口語体であれ、『言葉の響き・音の響き』というところも含め、分かりやすさや、心への響き具合に、大きく関わってくるんだろうなと思います。

 古来からの七五調等もそうですが、時代の流れと共に、『ラップ』なんかも、『言葉の響き・音の響き』を大切にする、現代若者文化と言えるのかも知れません。

 『古池や、蛙(かわず)飛び込む、水の音』だと情緒もありますが、『古い池があります。蛙が飛び込みます。水の音がします』では、「ふ~ん、で、それが、何か?」ってなってしまいますよね(笑)。

 落語の小噺(こばなし)風にちょっとアレンジして、『池の端(はた)でチャンポン食べてる野郎に、チョイと訊(たず)ねてみたんですがね、「古池に、蛙が飛び込んだんだってね?」「チャ(ン)ポ~ンッ!」』と、テンポよく、ひとボケするなら、多少は雰囲気とオチも伝わるのかも知れません(笑)。

 私が、金光教でありがたいなと思えるところは、角埜先生も書いておられますように、「身の上のこと何なりとも、実意を持って願え」と、ほとんど一切の条件や制約が設けられていないというところですね。

 大きいこと・小さいこと、立派なこと・立派でないことの区別なく、心の底から本気で願わずにおれぬことのみを願わせて頂けるというのは、ほんとありがたいです。

 岡江久美子さんの言葉を少しお借りしますなら、「自分らしく、かしこ振(ぶ)らず、エラそ振らず、ありのまま、分をわきまえて願わせて頂ける」、ということになりますね。

 『生神金光大神、天地金乃神、一心に願。おかげは和賀心にあり。今月今日でたのめい』

 言葉の響きも音の響きも、心に響き、残りやすいですよね。

 「何を願うにしろ、つねに感謝の気持ちが土台になければならぬ、ということです。『おかげは和賀心にあり』=『おかげは和らぎ喜ぶ心にあり』なのです。和らぐという言葉には、人と争わない穏やかな心という意味が含まれ、おかげになるもならぬも自分の心次第という掛詞(かけことば)にもなっているようです」というところ。

 願う人の土台に、万物への感謝があるのか? それに伴う人格や人徳が備わっているのかによって、言葉や願いの重み・説得力も変わってくるんだろうなと思います。

 例えば、ちょっと話は変わってしまうかも知れませんが、選挙においては、「その候補者の土台には、万物への感謝の心や思いやりの心があるのか? 人格や人徳も備わった言葉や願いを発しているのか? ただただ聞き心地だけがいいキャッチフレーズや政策ばかりを連呼しているだけの候補者なのではないだろうか?」と、『分かりやすい』=『聞き心地のいい』言葉の深浅には気をつけないといけないなと思っています(笑)。

 『実意をこめて、すべてをたいせつに』と書かれた、金光鑑(かがみ)太郎先生(4代目教主)の色紙が、昔から我が家に掲げられています。

 角埜先生もおっしゃられていますように、「自分にはどういう願いが授けられてあるのか? 神様は、どういうことを、自分に、真剣に願わせて下さるのだろうか?」という、『願いそのものも授かりものである』という視点も大切にしながら、自分なりに、実意を込めて、全てのことは無理ですが(笑)、できる範囲で、それなりに、それなりに……、分をわきまえ、日々大切に、過ごさせて頂きけたらと思います。

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