大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。 ホームへ教会のご案内 教会長からのメッセージ
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金光教高田教会、うどんが好きかラーメンが好きか
44亡き妻のことなど
大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。
もくじ
 ○ 落ちこぼれ引きこもりの私がどうして結婚できたのか
▲ 引きこもったのは主に「宗教2世問題」
▲ 彼女とは学生会で出会った
▲ 岡潔氏の大発見のプロセスが全てに当てはまると直感
▲ 引きこもりのくせに威張っていた
▲ 一緒になれたのは彼女のおかげでもある
▲ 添い遂げるためには手段を選ばず?
 ○ 大祭及び式年祭挨拶 平成25年5月4日
▲ 信仰する神様にふさわしい施設や儀式祭典を目指しではいるが
▲ 様々な課題を抱えて苦心する布教
△ 兼子姫について
△ 穂積比女について
▲ 我々を踏み台にして、更にレベルの高い困難と闘ってほしい
▲ 自分たちができなかったことも後に続く者たちがしてくれる?
令和5年9月22日 奈良県 桜井教会にて
○ 落ちこぼれ引きこもりの私がどうして結婚できたのか
 先月、なきヨメさん穂積(ほづみ)比女(ひめ)の40年祭を,同時に養母の20年祭も、私自らが祭主をして、子孫だけで仕えさせてもらいました。
 この中で穂積さんのことを知ってくれている方はほとんどいなくなってしまいましたが、これを機会に、一度はキチンと話をきいておいて頂きたいと思います。

 その前に、配偶者の呼称についてでありますが、妻、家内、女房、連れ合い、などと色々あるのに、どう呼んでみても落ち着かないのは何故でしょう。俳人の坪内稔典氏も、ごく短い2つの文章の中で奥さんのことを語るのに、妻、相棒、カミさんと3通りも言い換えておられます。私はできるだけその呼称を使わずに済ませたいです。
 その人のことをキチンと語ると言いましても,洗いざらい正直にというわけではありません。あくまで自分の都合に合わせてのことであることを予め断っておきます。

 昨今、結婚ということのハードルがどんどん高くなっていくのは、必ずしも若者の意識の変化によるものではなく、一番の原因は、やっぱり貧困化によるものだと言います。だとすれば一番の責任は、たびたび言うように、その貧困化を招いた財務省にあるということになります。政治家達も歯が立たない強大な力を持つ財務省のお役人達の考え方が、「ザイム真理教」と言われるような緊縮主義や増税主義で凝り固まっていて、日本の長期衰退を招いてしまったのでありますが、そのことには今はこれ以上触れません

 私の若い頃でも、私にとって結婚はそんなに容易ではありませんでした。何しろ貧乏な上に、落ちこぼれで引きこもりときていました。そんな人間が結婚できたのは,確かに奇跡的と言えますが、敗戦のどさくさをまだ引きずる世の中だったせいとも言えます。
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引きこもったのは主に「宗教2世問題」
 彼女との出会いを語る前に、まず、なぜ引きこもりになってしまったのか、なるたけ簡潔に軽やかに、できればコミカルに語っておきたいと思います。
 それは、今はやりの便利な言葉を使いますなら、「宗教2世」の抱える問題を克服するには、どうしても通らねばならぬ道筋であったと言えます。2世問題というのはどの宗教にも共通して存在し、しかもその中味は実に多様であります。その上、我が国においては、信教の自由というものが憲法で保証されており(そういう美名の裏にGHQの日本弱体化の企みが隠されていたことは言うまでもありませんが)、めいめいの信仰は原則一代限りであるため、宗教の信者全てが、それぞれの2世問題を抱え込むことになります。自分の信仰が次世代に継承されていくという、確かな保証は何もないのです。

 教会や寺院の子弟の抱える問題は、更に複雑、時に深刻であります。私の場合がまさにその「複雑・深刻」の部類で、それが丁度受験期に噴出して、落ちこぼれてしまったのです。同じ時期に自分の出自にも疑問をいだくようになり,密かに調べていって突き止めたのが、これまで時々遊びに来ていた父方のいとこ達が、実のきょうだいであるということでした。そういう兄弟姉妹が私を含めて当時6人生き残っていました。
 このこともかなりショックではありましたが、それでむしろ気がラクになった面の方が大きく、両親に対してかえって寛容にもなれました。今では、一人っ子の気持ちと、きょうだいが大勢いる者の気持ちと、両方がわかるのが自慢ですが、食糧難時代に彼等が嘗めたであろう辛酸にまでは想像が及びません(もう2人欠けてしまいましたが)。

 引きこもっておよそ4年、ようやく奇蹟的に大学には入れてもらいましたが、結局引きこもりは治りませんでした(入った経緯は何度も話したくないので、HPの「1おあてがいのままに」参照)。怠け癖がどうしても直らず,元通り中之島の府立図書館と教会の物置に舞い戻ってしまいました。興味のない科目でも適当にこなす、ということができなくなっていたのです。それを言い換えるなら、生まれてはじめて本気で生きはじめたのだと言えなくもありません。物置では密かに壁目当ての信心にも励みましだ。
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彼女とは学生会で出会った
  ところが、大学に入るとすぐに、同じ真砂教会の手続きである佐野教会の子弟、福嶋義次さんが、教区の学生会というのに呼んでくださいました。これはあくまで自発的な組織なので、時によりあったりなかったりします。今はやってないと思います。福嶋先生は後に教学研究所長もされ、新教典刊行を実現された最大の功労者です。今は松江市の北堀教会長をしておられます。
  同期で入った人達でよく覚えていますのは、三日市教会の二人の信者さん子弟です。
  一人は阪大生の中西暉という、如何にも理科系らしい温厚で純朴な青年で、後に確か母校の教授になられたはずです。もう一人は芝野博文という浪人生で、翌年阪大に入りましたが、後に、老齢の女性教会長を献身的にサポートするというユニークな信心で、大阪ガスの社長にまで上り詰める大化けを果たしました。彼の講演会が奈良で開かれたとき、私は近鉄上本町のターミナルまで迎え出て、会場に案内させてもらいました。

 ここでようやく穂積さんが登場します。
  夏休みには霊地金光で、学生会の全国大会というのがありまして、それにも参加しました。彼女を初めて見かけたのは甚だ映画的で、境内を歩いていたら、最初に階段を上がってくるやや色黒の女性の顔が見え、肩が見えと、順繰りに全身が姿を現わしたのですが、その時は格別の印象もなく、何の予感もなく(ちょっと険のある顔だなとは思いましたが)、どこの誰ともわかりませんでした。ただ、学生大会の参加者だとは見当がつきました。
  その後わかってきたのが、広島学生会の代表で広大生、教会の娘、至って生真面目な性格ということでした。いかにも優等生タイプにも見えました。地元の駅伝で有名な世羅高の出身で、卒業式の答辞を読んだことは、ずっと後で知りました、人生の根本的な事柄に対する関心も強そうでした。男女を問わず、そういう関心を持ち合わせている人は意外と少ないのです。   「険のある顔」という印象については、実際に気が短くて怒りっぽいことが、一緒に暮らしてからわかってきて、その第一印象を時々笑い話の種にしました。

  その学生会にいたのは休学期間も含めて3年ほどですが、最後には代表にまつり上げられたため、他の学生会と連携を取り合う会議などで、彼女に会う機会も増えました。
  付き合うようになったきっかけは、何かの連絡文書に書き加えたほんの一言が、その何倍かになって戻ってき、それに返信するとまた何倍かになって戻ってくるというようなことを繰り返すうちに、止まらなくなってしまったのです。
  しかし私の方は、ただ漫然と遣り取りをしたわけではありません。常に心の距離が縮まるよう意識的に言葉を選び続けました。おかげで一通ごとに距離が縮まっていく手応えが感じられましたが、いつもスムーズに返信が書けたわけではありません。適切な言葉を見つけるのに、十数日はおろか、数十日を要することもありました。それでもあきらめずに探し続けていると、言葉は必ず見つかりました。言葉が見つかるということは、新しい考えが開けるということでもあります。
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岡潔氏の大発見のプロセスが全てに当てはまると直感
 何故そういう追求の仕方をするようになったのかについては理由があります。
 その頃、岡潔という数学者の「春宵十話」というのが新聞に掲載されたのです。この「春宵(しゅんしょう)十話」を含む岡潔のエッセイ集は、今もなお極めて高く評価されていますが、その十話をリアルタイムで読んだわけです。
 私の場合は、その中の「発見の鋭い歓び」というのに、とりわけ深い影響を受けました。岡氏がある数学上の超難問と取り組んだ時、あらゆる角度から気が変になるくらい考え尽くしても、どうしても解けない、とうとう行き詰まって何も手に着かずぼーっと過ごす状態が長く続きました。ところがある時、ソファーでくつろいでいたら、考えが自ずとある方向に向いていき、一つの山脈を見渡すように、答えが見えてきた、そしてその正しさを疑いようもないと確信した、といった内容の話であったと思います。
 私はこの話が単に数学上の大発見に限らず、全ての事柄に当てはまると直感したのです。これこそが神信心しておかげを受けるということの普遍的な道筋ではないかと考えました。いわゆる「奇蹟的なおかげ」は別としまして…。
 強い願いや意志を持って願い続け、努力を続けるならば、人間が寝たり休んだりしている間でも、無意識の領域で神樣が休まずに働いてくだされてある、という説を裏付けてくれるこの上ない実例として、この話が私に生きる大きな希望を与えてくれました。

 私たちの付き合いは、遠距離であることがかえって幸いしたと思います。簡単に会えていれば、かえって間が持ちにくかったかも知れません。練りに練った言葉の遣り取りのおかげで、結びつきは極めて強固なものになりました。その具体的な内容は、今では全く思い出せませんし、往復書簡は彼女の死後焼却してしまいました。やっぱり後に残ると気恥ずかしいのです。
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引きこもりのくせに威張っていた
 それにしても、どうして私のような落ちこぼれの引きこもりに結婚が可能であったのかといいますと、一つには、実は引きこもりのくせに、教会家庭内では私が一番威張っていたということがあります。
 別に威張りたくて威張っていたわけではありません。親を頼りにしたくても、できなかったのです。養父は特殊児童のような人で、世俗的な仕事では全く使い物にならず、宗教家としてならなんとか格好がつく、といった感じの人でした。
 親のことをぼろくそに言ったので、その埋め合わせも多少しておきます。
 父は江戸時代のある両替商の直系の末裔です。明治期には没落して極貧生活を送っていました。高等小学校を終えたら丁稚奉公に出されるはずでしたが、到底無理と判断されたのか、ようやく中学受験を認めてもらい、大阪の北野中学に入りました。
 勉強が好きで、中でも修身が好きで点数も良かったこともあって、「聖人」とあだ名がつきました。3年生の半ばまでは成績が学年で1番、授業料免除の特待生でしたが、途中から栄養不良系の病気で長期入院を繰り返し、卒業時の成績は39番でした。今では考えられないことですが、当時の成績表には、総合順位はおろか、その学年全員の点数が科目ごとに情け容赦なく書き込まれていたのです。
 絵を描くのも好きで、小学校の時、府の写生大会で一等賞を取り、「少年の天才画家」と新聞に載ったり、中学の何かの行事の折、みんなの前で画技を披露したこともあったらしいです。皮肉にもその同級生たちの中には,佐伯祐三という本物の天才がいました。どんな目でその様子を眺めていたか、ちょっと冷や汗ものですが、面白いことに、佐伯の「図画」の点数は、さほど良くはなかったことが成績表を見るとわかります(今回、これが絵画史的に最も注目される情報かもしれません)。
 父は美術学校に進みたかったらしいのですが、その夢は叶わず、他への就職も適わず、幼い時からお参りしていた真砂教会に、修行生として拾ってもらったわけです。
 難儀なことに、父は自分が好きな絵を描くことを日課として私に押しつけました。それを拒む抵抗力がつくまで、相当な年数を要しました。それに限らず、何かといびつな育て方をされたために生じた世間とのギャップを修正するためにも、引きこもりは不可欠だったと思います。ちなみに、子孫の中からは今の所そういう人間は出ていないので、私の例を環境のせいにしても許されるのではと思うのです。
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角埜武一(先代)成績表
一緒になれたのは彼女のおかげでもある
 様々な苦労の末、ようやく教会を親ごと背負っていく気にはなりましたけれど、まずは孤立を緩和したいとも思いました。私を最も悩ませていたのは、孤独感というより孤立感でした。周囲からも、社会からも孤立してしまって、誰の為なら頑張れるという張り合いが何もないのです。せめて自分の家族を持ちたいと思いました。それがあれば、親も教会もなんとか背負っていける、そういう身勝手とも言える思いを、なんと彼女は受け入れてくれたのであります。
 一緒になれたのは、彼女の持ち前の性急さや大胆さにも助けられてのことでありました。思い込みの激しさに振り回されることはその後よくあったのですが、この時ばかりはそれが有利にはたらいたと言えます。
 最初の頃と、つきあい始めてからの彼女の変貌ぶりも興味深いものでした。別に化粧をするわけでもないのに、内面から女性らしい輝きを帯びてくるのです(それを「お色気」と言い換えることもできます)。
 賢い女がえてしてロクデモナイ男に引っかかる、とはよく聞く話ですが、彼女の家族親族からは、まさにそういう目でみられてもいたしかたのない状況でした。彼女の実家である教会をはじめて訪れたときは、ずいぶん緊張しました。しかし、私の訪問に合わせて実家に戻って来ていた一番上のお姉さんの反応をみて、彼女が私に陰でそっと、「合格」と囁いてくれたときは、さすがにほっとしました。
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角埜穂積 24歳(1963年)
添い遂げるためには手段を選ばず?
 結局めでたく一緒になれたものの、その後がまた大変でした。私が争いごとが嫌いなのに反して、彼女は腹立ちや不満を胸にしまっておくということを、まるでしないのです。姑と争うのも平気でした。世の中にはそういうタイプの人もいるのだという実物を、私は初めて身近に知ったのです。
 それに、彼女の辞書には「時節を待つ」という言葉がないかのごとく、とかくことを急ぎました。私の場合、実が熟して落ちそうになるのを待つ性格であるのに対して、彼女の場合は、熟さぬうちからでもたたき落とそうとせずにおれないのです。
 そういうことがありながらも、結婚生活は概ね幸せであったと言えます。子供も3人授かり、孤立感は大いに緩和されました。できることなら最後まで添い遂げたいと思いました、その目的のためには手段を選ばず、どんなことでもしてみせる、ということの裏返しとでも言いますか、決して「争わない」と決めたのです。目的に反するようなことは一切しない、言わないということです。例えば「売り言葉に買い言葉」などというのは、私の辞書からはとっくに消えてしまっていました。
 私たちの間柄のシンボルとして誇示できそうな習慣が一つだけありました。いつの頃からか、同じ一つの大きな湯飲みで茶を飲むようになったのです。多分、一体感を演出するために始めたものだと思うのですが、これはおしまいまで続きました。プリプリ怒っているときでも彼女はそれをやめなかったところを見ると、習慣になってしまうと感覚が麻痺してしまったのかもしれません(それが狙いでもありました)。子供たちの前でもそうしていたかどうかは、どうしても思い出せません。今更尋ねるのも恥ずかしいですし…。

 ところがその最後が思いの外早く来てしまいました。病気がわかって1年も経たぬうちに、この世を去ってしまったのです。その詳細を語るのはつらいのでご勘弁を…。
 それ以後の心境につきましては、10年前に養母の10年祭と、妻の30年祭を仕えた時の挨拶を、一部省略しながら引用させて頂きます(ホームページには全文)。その折は大祭に併せ、親戚や信者さんたち,他教会の先生方も加わってのご祭事でした。
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○ 大祭及び式年祭挨拶 平成25年5月4日
 親先生ご祭主のもと、多くの方々の協力を得まして、天地金乃神様のご大祭を仕えさせて頂き、それに引き続き、先代教会長婦人角埜兼子姫10年祭、並びに亡き妻角埜穂積比女30年祭を仕えさせて頂きましたこと、誠に有難いことに存じます。
 また、ご親族の皆様には、ご多用の中、この式年祭に繰り合わせご参拝頂き、厚く御礼申し上げます。こうした行事で遠方の方々をも巻き込むことについては、心苦しく、ためらいもあったのでありますが、向こう様からわざわざ声をかけて下さったり、或は、知らせてあげてほしいとの要望を受けてのことであることも申し添えておきます。

 また、大祭を兼ねてということは初体験という方もあるかと思います。この春秋の大祭というのが、教会における一番大きな行事でありまして、春は私どもが信仰の対象とする,私どもの生命の根源、目に見える一切を生み出す目に見えぬお力、教祖様がいみじくも「一生死なぬ父母」とたとえられた天地の親神様を称え、親神様にお礼を申すお祭りであります。
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信仰する神様にふさわしい施設や儀式祭典を目指してはいるが
 もともと現在の祭典の形式や服制は、神道の形式を模して、そこに本教独自の信仰内容を盛り込むべく工夫を凝らしたものではありますが、信仰内容はともかく、祭典の形式や、神前のしつらえ等は、古くからある神社や寺院のそれに比べると、まだまだ洗練の度合いが低く、未完成の感を免れません。境内地そのものが、神社の神様とは別格の、天地の神様をお祀りするというのに、昔からある神社仏閣ほどの敷地が確保できず、それにふさわしい風格に欠けております。
 しかしながら見方を変えますと,あくまで庶民の生活に密着した信仰であるという観点からみますなら、つねに、これでもいいのだと、現状を肯定する視点もあってしかるべきだろうとも思うのであります。
 そもそも布教の原点、教会の出発点のほとんどは、民家の部屋を改造したようなお広前から始まったのであります。この教会も最初はそうであったと聞いております。そのようなところから、今日のようなところにまでこぎつけさせて頂いたのであります。
 そして、この道の信心におきましては、信奉者は日常生活のあらゆる場で、神様に心を向け、神様に頼りすがり、神様に問いかけようとしているはずです。
 時には壁に向かって祈り,車の中でも祈り、道を歩いていても祈り、便所の中でもお礼を申す、という生活を進める中で、形を改めて、信奉者が心を合わせ力を合わせて、その時々になし得る精一杯の心を込めた祭典を仕えさせて頂くということが、大切であり、有難いことなのだと思うのであります。
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様々な課題を抱えて苦心する布教
 このお道の教会が神社仏閣と異なる点は他にもあります。それは、つねに存続の危機にさらされる宿命を背負っているということであります。お寺のように檀家制度に守られることがなく、神社のように、地域社会によって支えられるものでもなく、あるいはキリスト教のように,大きな組織から聖職者が派遣されて維持されるものでもない、あくまで個々の教会の自己責任において維持されていかねばならないからです。
 そうした中で私自身は、教会の御用につくずっと以前から。この社会に教会があるということの意味を厳しく問う社会の眼というものを、いつも意識させられつつ生きてきました。同時に自分自身も、そのことを問い続けずにはおれませんでした。
 その社会の厳しい眼というのは、実際はほとんどの場合、無関心という形をとるか、それとも宗教蔑視、とりわけ新宗教蔑視という形をとるのであります。そういう社会にあって、人々が本来持つであろう宗教的要求に的確に応え、そうした要求をうまく掘り起こしていくということが、不徳にして非力なる自分にはいかに至難の業であるかということを、つねに思い知らされながら御用を続けて来たわけであります。
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△ 兼子姫について
 そういう私の抱えた問題意識のありようとは、ずいぶんかけ離れた意識のもとにではありましたでしょうが、同じように教会布教の苦労を背負って、高田布教122年のうちの80年間を、教会の裏方として生き,晩年は「おばあちゃん先生」として親しまれたのが、亡き母兼子姫でありました。
 嫁いできて以来母は、世間的にはおよそ浮き世離れした父に連れ添って、家計のやりくりにずいぶんと苦労をさせられたようであります。
 父は食うことにも着ることにもほとんど無頓着で、物を買わない主義、捨てない主義、何があろうと神様へのお供えが最優先で、ご本部への月参りは欠かしたことがなく、旅費が片道分しかないときでも、そのまま出かけて後から旅費を送らせるといった徹底ぶりでした。
 そのことの当否について、今はあまり追求する気はありません。教祖様も神様も、恐らくそのようなことは求めておられず、その逆であったろうことは、教典からも窺えることではありますが、私が注目したいのは、むしろ、そういう超マジメ人間を生むに至った土壌についてであります。それもまた、日本で最も真面目な教団であるとの評価を得た、この教団の純粋性の一つの表れではないかと、今では考えるようになりました。
 しかしながら、そういう布教生活の中で、母は、おしなべて今よりはずっと貧しい時代であったとはいえ、女性の身としては、相当肩身の狭い思いをさせられたこともあったようです。

 そういう家計全般を我々若夫婦が担うようになって、ある意味ラクになったわけですが、その頃から年金制度もはじまり、掛け金をしていないのに、わずかながらも年金が入るようになったことを殊の外喜んでいました。「いいときに年寄りにしてもらえた」と言うのが口癖でした。かといって、何を買い求めたいというのでもなく、ただ、孫たちに年玉や小遣いを与えたり、身内の慶弔事などに、気兼ねなく出費ができるということが、何よりの喜びであったようです。
 晩年に近づくほどに、愚痴不足、恨みつらみ、ねたみそねみといったマイナスの感情がだんだんとそぎ落とされていき、感謝の気持ちだけが残っているといった風情に近づいていきました。
 やはりそのおかげでと言うべきでしょうか、足腰は弱り、ほとんど視力を失いながらも、90歳代の半ば頃までは、介護サービスも受けることなく、自力で入浴ができました。サービスを受けるようになってからも、お医者が処方してくれた薬は1日たった1粒で、薬局に行きますと、この歳でこんなに少ないのは珍しいと言われました。
 満98歳になった誕生日に、ヘルパーさんが、4ヶ月後にお葬式で使うことになった記念写真を撮ってくれました。その年の暮れ頃から衰えが見え始めましたが、それでも意識はしっかりしたままで、1月4日の月例祭にも、広前に這って出てくることができました。その時を境に急速に衰えはじめ、お医者さんは自宅でそのまま点滴を受けられるようにしてくれました。従って、一生病院に入院ということをせずじまいでした。
 そして1月16日早朝4時前、ちょうど詰めてくれていた娘2人に看取られて国替えさせて頂きました。私はといえば、前々日に亡くなられた信者さんの告別式の準備に追われていました。そこへ長女がやってきて、「どうも今し方息を引き取ったような気がする」と言うのです。それくらい穏やかで安らかな、文字通りの老衰死でした。
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△ 穂積比女について
 一方、44歳の誕生日の前日に,若くしてこの世を去った穂積比女についてでありますが、こういう言い方が許されますならば、まさに私と高田教会を救うために生まれてきてくれて、ある程度目的を果たすと、さっさと引き揚げてしまった、という印象を持っております。少なくとも結果的にはそういうことが言えますので、今も霊前で毎日感謝しております。
 亡くなって8年後にこのお広前が建ったのですが、生前から自分で図面を引いて、成就すべく一生懸命祈りを込めていました。設計の上で、私どもの知恵ではどうしてもやりくりのつかない不満を残したままであったのですが、工務店の人が、さすが専門家で、基本構想はそのままで、不満を見事に解消する形で完成させてくれました。
 亡くなったとき私は、これが決して終りではなくて、これからは御霊様との新しい関係が始まるのだというような意味のことを口走った覚えがあります。しかし、言うは易くして実際にどれほどそのことができているかとなると、恥ずかしながら、人様に聞いて頂けるほどのことは何もできておりません。
 幸か不幸か、私には何かと知識はありましても、霊能力というものは授けられておりません。ビートたけしさんでさえ、霊が見えることがあるというのにです。夢枕に立って何かを教えてくれたということもなければ、恨めしやと言って化けて出られたこともありません。見る夢はといえば、ごく普通に日常生活を送っているような場面ばかりです。はじめの頃は、目が覚めてからもういないことに気付くことが多かったのですが、だんだん、途中でそのことに気付いてから眼覚めるということが多くなりました。
 そうこうするうちに、一緒にいた期間よりも死に別れてからの期間の方がはるかに長くなってしまいました。それも、目に見える世界のことにだけかまけ、振り回されて生きてきました。今では夢に出てくる回数さえ、めっきり少なくなってしまいました。

 30年経ってようやく思い至ったことが一つあります。やっぱりこの人とは一番相性が良かったのかもしれないということです。私が打てば必ず響いてくれました。一言か二言水を向けただけで、三つにも四つにもなって返ってきました。そういう相手は、後にも先にも一人も現れてくれておりません。
 相性というのは、あまり似すぎているよりは、異質な部分と共通な部分とが適度に混ざり合っている方がいいように思います。それでお互い補い合えたり、進歩したりできるわけです。その混ざり具合がちょうど良かったのではないかと思うのです。
 一番大きな違いは、気性の激しいところと、それほどでないところでしょうか。私は頑固だと言われる面はあっても、そんなに激しくありませんが、彼女の場合、あまりの思い込みの激しさに、周囲が辟易したり、振り回されたりすることが多々ありました。今では、そのことをも含めて、私には大きなプラスになった、有難いことであったと思うのであります。
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穂積 36歳
我々を踏み台にして、更にレベルの高い困難と闘ってほしい
 そして私自身も、あとどれだけこちらの世界に置いて頂けるかわからぬ年齢に達したわけでありますが、布教の上の様々な悩みを別にしますれば、今は誠に有難く勿体ない生活を送らせて頂いております。生涯教会の御用に使うて頂けることを殊のほか有難いことに思っております。
 単に自分の不徳を恥じ、力のなさを卑下しているだけではありません。その一方で、金光教祖様の教えをこよなく愛し、この道の信心のもたらす果実というものに大きな自信と誇りを持ち、この道の教会の存在価値や必要性ということについて、いささかの疑念も持たぬようにならせて頂けたことをも、同時に有難く感じているのであります。
 ただその教会の存在価値や必要性が、一般大衆にすぐに理解されるようになるとも思えないのです。この道の信心の本当の価値が理解され,その価値を体現する人々が数多く輩出するようになるには、まだまだ長い年月を要すると思うのです。そうなってはじめて、教会の安定的な存続ということも可能になるのではないかと思っております。
 それまでをどうやって持ちこたえていけばよいのか、信者さんの子孫や、私自身の子孫をはじめ、後に続く人たちの信心がどうやったらもっとしやすくなるのか、御用を継いでくれるかもしれぬ者たちが背負わねばならぬ重荷を、どうやったらもっと軽くできるのかということなどが、私の残りの人生の大きな課題であると考えております。
 もちろん、生きている限り苦労から逃れることは不可能ではありますが、お御霊様も含めて、私共がこれまで嘗めてきた苦労を踏み台として、後に続く人たちには、更にレベルの高い困難と闘ってほしいと思うわけであります。
 先生方並びにご信者の皆様、またご親族の皆様、本日は当教会のご大祭にご参列ご参拝頂き,更には2柱の御霊様の式年祭にもおつきあい頂き,誠に有難うございました。

 
 これが10年前にさせてもらった話です。10年経つともう忘れていくことの方が多くて、付け加えることは何もありません。ただ、子孫の数だけは、配偶者も含めて10人から17人に増えました。そのうちの4人がひ孫です。これで孤立状態は更に緩和されたと言えますけれど、それがなくても、自分が孤立しているという考え自体にも疑いを持つようになりました。
 こういう話をするたびにお断りをしているのでありますが、これは子孫繁栄をひけらかすために話すのではなく、何の取り柄も実績もない私が、目に見える形でおかげを受けている事として聞いてもらえるのは、これくらいしかないということで話させていただくのであります。おかげを受けている有り様は、人それぞれでいいと思うのです。
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自分たちができなかったことも後に続く者たちがしてくれる?
 子孫がいてくれる幸せの一つは、自分ができないことをしてくれたら、まるで自分がしたような気になれることです。私はまだ自分の国から一歩も外に出たことがないのですけれど、下請けの大企業に就職した息子は、海外出張で5大陸を制覇したそうです。それならもう自分はこのまま日本から一歩も出なくていい、という気になれるのです。
 自力で海外に出るには、英語くらいは話さねばなりませんが、実は私は英語が話せません。外国人と話したこともないのです。そんな役にも立たない英語力で、ずいぶん家計の足しにはさせてもらいました。ヘミングウェイの「老人と海」など3度も読んだことがあります。そのうち2度は畝傍高校の生徒が相手で、3度目は、ずっと後になって孫が相手でした。
 声を出して読んで見せるときは、5文型のどれかを理解しているような抑揚で読んで見せることはできました。眼がまだ良かったときは、横からでも逆さからでも読めました。しかし、あと私がしたのは英文和訳の手伝いだけで、その場限りで、およそのストーリー以外は頭に何も残っていないのです。魚の名前さえイワシとサメ以外は思い出せません。要するに、英文解釈と英会話は全く別物なのです。
 その孫は商社上がりで、今は自分で会社を立ち上げて貿易の仕事をしているので、絶えず外国人とメールの遣り取りをし、時には海外にも出て行くようです。こういうのをみると、自分も必要に迫られればそれができたのだと思えますし、こういう点で彼等は、まさに自分よりレベルの高いところで苦労しているのだと言うこともできます。
 願わくは、教会布教の苦労もそのうち誰か後の者に引き受けでほしいわけですが、とにかく元気で生きさせて頂いている間は、これからもずっと、その踏み台作りに励ませて頂きたいと願っております。
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談話室より
 S.Sさん(男 60代 海外在住も当分東京暮らし)R.5.10月

 ①結婚のハードルが高い
 昔は農地を引き継いだり、商売を引き継いだりするために制度としての結婚、出産、育児があったと思います。農業もほぼ相続がなくなり、家業もサラリーマン化しているので結婚数が減るのは先進国では普通だと思われます。
 フランスや米国でも人口増は全て移民の子孫です。

 女性の社会進出もあり給料も増え、女性から見ると無理に結婚しなくても一人で自由に気ままに暮らしたいという希求が強いと思います。彼女らの両親を見てもあまり幸せには見えないかも。
 故に日本の人口減少は加速度的になり、数十年後は江戸時代と同じ3000万人位になるのではないでしょうか。

 ②図書館
 ひきこもりから図書館通い、楽しく読ませてもらいました。図書館に入るとほっとしますね。基本、図書館で本を探す時間は一人、読書も一人なので、太古の時代から人間は意外と一人が好きなのかも(笑い)。もっともお金をもらうためには集団行動や人間関係、忖度、気配り、人より早く行動する等が重要ですが。

 ③存続の危機
 数十年後の話ですが人口減少が極端に進んだ場合、技術も進歩しているでしょうからこうなるのではと勝手に想像しています。

 各教会から御本部に先生方が移動。
 先生が岡山にいて担当の各信者とネットで繋がり、お礼、お願いは直接先生に伝わり、それが直ぐ金光様にお結界で取り次がれFeedbackがある。

 春と秋の大祭、春と秋の御霊祭り等は御本部とネットで各家庭につながるし、御本部広前は24時間ネットで繋がり家から参拝出来る。
 今より速く綺麗に3D で伝わるので臨場感も違うはず。

 AIやChatGPTもより進化しているので、生神金光様のAIが基本個別に一般的な話はお話しくだされる。亡くなったら願うところに直ぐ行ってやり話をするというImageです。教典を読むと金光様は話好きなのが分かります。
 個別対応なので、例えば、お酒が好きな人にはあまり飲むなよと言い、飲まない人には少しは飲んだらと言う。

 込み入った話の場合は担当の先生に今までの会話を見せ、更に具体的なお願いの仕方、お陰の受け方、めぐり、心配を預ける等をネットで話してもらい教主金光様にお取次ぎを頂きFeedbackをもらう。女性の先生や同年配がいい女性はその先生を選べる。

 その為には、
 金光図書館の全ての文章、特に直信との会話はデータ化しAIが読み込む。明治16年以降の各教会の偲び草等のお話もデータ化する。併せてWeb上にある金光教関係のお話、例えば、角埜先生のお話もAI化する。各教会のこう願ったらこういうおかげを頂いたという話も全部集める。教学研究所?

 ④ひ孫四人はすごいですね。子孫繁盛、家繁盛ですね。
 老人と海、私も読みました。映画でも見ました。


 教会長より

 図書館通いの頃の気分は決して楽しいものではなく、仕事を辞めたサラリーマンが、家族にそれを伏せて出勤するフリをするのに似た心境でした。
 それだけに、とにかくここまで生きさせてもらえただけでも有難くてならないのです。
 「結婚のハードル」の問題や、「存続の危機」等については、引き続き取り組み続けていきたいです。そうするしかありません。


 M.O2さん(男 教会長の弟 82歳) R5.10.24

 岡潔の「春宵十話」は私も同時期に読んでいて感銘を受けた筈だが、実践に至らなかった。ある意味共感していたのかも知れない。他に感銘を受けたと言えば、宮本武蔵の「五輪書」では「我事において後悔せず」、西田幾太郎の「善の研究」では「人は人吾はわれ也とにかくに吾行く道を吾は行くなり」は座右の銘になっている。

 孤立感は共有している。小5の時、人一番甘えん坊で、母親とは一体感が有った。ところが或る日、書き物をする母親に寄り添いながら、その母と皮膚1枚を隔てて別物と気付いて愕然とした。地球から離れた太陽系の、暗い宇宙に唯一人浮かぶ、孤絶感を感じたのである。以来、次第に青春の悩みの一環となり、表面は賑やかに付き合ったので仲間は多かったが、本音トークのできる友は数少なかった。しかも中学時代の友、高校時代の友は何れも途中、学園から落伍して消えていった。大学の友は「IQが京都府で第2位」とのことで、周囲の京大生が凡人に見える巨樹の風格があったが、一回生の終わりに自殺した。その直前恐らく形見分けに進呈されたロマンロランの「ジャンクリストフ」、幼少時代の描写には共感させられた。彼も孤絶感に苛まれて来たのだろう。それに対し、京大の学生相談室の教官は「電気ショックで治せたのに残念!」、「アホか!」と思ったものである。孤絶の悩みは人格そのものである。それを電気ショックで破壊するなんて、身体を生かすために心を殺す位なら、宗教勧誘の方がまだましである。
 孤絶すれば当然「なぜ自分は居るのだろう、どう生きるべきだろう」と言う「ベキ論」となって、理想と有姿の格差に苦しむのである。どうあるべきかは底無しの思考世界である。その思考の重荷に耐え兼ね、途中で挫折して神に委ねるのが信仰と考え、思考継続を選ぶのだが、そんな人間は実生活を生き抜くことは困難である。前記3人は耐え切れなかったのだろう。私の場合、生来の生命力に、父方の理系の才が、辛うじて生活の糧を保障してくれた。文系では生き延びれなかったのではと考える。ところが当時、自分が何を苦しむのか文字にしようとしたら、そのあまりの稚拙浅薄さに呆れたものだ。未熟な思考と表現力では神に委ねた方が楽である。唯悶々の日々であった。鸚鵡真理教信者に真面目で優秀な学生が散見されたのも判る気がする。
 孤絶に気付いた人間が、伴侶を見つけるのは大変である。内面の孤絶は孤高と頑固に繋がり、実生活では態度がでかくなる。私の場合、孤絶に耐えている優越感の一方、実生活での無能という劣等感!余程夢を共有してくれないと生活の破綻は自明である。結婚生活45年の今も新婚時代の傲慢な所業をチクチク責められるのであるが、客観的に見ても現役時代は身勝手この上なかった。家族は良く耐えて呉れた、有難う!視点は自分の内面だけ、周囲なんぞ眼中になかったのである。
 武一伯父の気質は他人事ではない。信仰に特化し、実生活の無能は伴侶の兼子さんが「先生」と呼ぶ態度で維持されていたようなもの、家族制度に守られていたともいえる。一方、武一伯父には幼い子供心に「こんな人と親戚で幸せだなー!」と思わせる何かがあった。独身時代、ある女性に「何か夢を感じさせる」と言われたことが有ったが、有難い誉め言葉で、自分にも何か魅力が有ったのかな?  企業の研究所で「私はブルトーザーのようなもの、皆が走る高速道路では役に立たないが、岩盤の前では大働きする。誰にでも容易なことはできないが、皆ができないことはできる」と大見得を切ったことがある。その実績を評価して、定年後の研究継続を大学が受け入れてくれたと考えている。
 要するに、平凡なことや生活に頭を使うことが嫌なのである。定年退職後、逆に仕事を始めた家内は、旦那に主夫業を期待したが、私は夕食準備に頭を使うことには耐えられなかったのである。退職後1年間の主夫業は地獄の日々であった。大学から声が掛かった時は「助かった!」。母浅子が半年間、同じ献立を続けたのもこの心境であったろうか!逆に、よくも同じ食材を季節を越えて調達できたものと感心した。母は、食事の工夫よりも、絵画や和歌などの芸事に専念したかったのであろう!父安吉は妻浅子の才能を愛して許していたのであろうか!
 以来愚夫には家事を期待しなくなったが、逆に私には妻の才能を伸ばしたい思いがある。家族の協力が無くて、踏み出せずにいるのかも知れない。
 私の妻は、書画にも才があるが、料理の才も尋常でなく。体力も並外れで、仕事と家事両方を人並み以上にこなして来た。何よりも人扱いに優れ、或る意味人誑し、孤立しがちな亭主の人間関係も修復して回る、社宅では「主婦の鑑」と言われた。よくもこんな都合の良い女性が伴侶になってくれたものである。  出会いのチャンスを双方が逃がさなかった。東京と九州島原半島、何の接点も無い2人の、旅先での一瞬のすれ違い、一期一会であった。2人共それぞれの地元でのしがらみを振り切り、直感だけで御互いの必要性を信じて、細い糸を辿り寄せ合ったのである。何時間一緒に居ても飽きない、生活の美意識類似、相互補完性抜群(婦唱夫随を前提に)、相性が良いということだろうか!他方喧嘩早く、ずけずけの物言い故、新婚3年間夫婦喧嘩無しと言うと、実家の御家族が感激していた。兎に角身に過ぎた伴侶に感謝することで、穂積さんとの類似性に驚く。何と高校の卒業式で答辞を読んだことまで!100年の歴史を刻む高校で初めての女子答辞だったとか、何で選ばれたのか本人も判らずじまい、成績・品行・美貌全て圏外、何で? 武一伯父と別バージョンの魅力が有ったのか?
 そんな妻も過労で70歳にして脳梗塞を発症し、処置が早かったので車椅子にはならなかったが、以後半身不随と格闘している。病臥中「こんな旦那を残して逝けない、息子も可哀そう」と必死に回復努力したらしい。

 今では孤絶感もベキ感も無い。「ちょっと無理して」を心掛けてはいるが、あるがままの自然態である。。それができるのも家内が居てこそ!「竹林の7賢」の炊事洗濯は誰がやっていたのだろう?

 老醜を晒さずに(82歳ではもうその領域か!)どれだけ自立できるか!
 妻に代わり得る伴侶には出会えないとの思いから、穂積さんは早く逝ったが、カミさんには長生きしてもらいたい。「俺の逝った翌日迄長生きしろよ」と10歳下の家内に願うのである。


 教会長より
 養父武一は、生活能力が乏しい上に、言わば偏見の塊であった。
 教団設立当初、信仰の拠所とされていたものが、ごく小型で薄っぺらな教典1冊きりだったので、その情報不足を補うため、末端ではそれぞれの創意工夫で布教するしかなかった。そこから多様な「信念」が生まれたが、玉石混淆で、中にはずいぶん変なものも混じっていた。それらの偏見を養父もたっぷり注ぎ込まれていて私を悩ませてくれたのである。

 Sさん(弟の妻)も答辞を読んでいたとは愉快!二人してヨメ自慢をしたいね。
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