大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。 ホームへ教会のご案内 教会長からのメッセージ
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金光教高田教会、うどんが好きかラーメンが好きか
2 うどんが好きかラーメンが好きか
大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。
もくじ
▲ 苦しい時の神頼みに終始
▲ そのくせ国家・社会の問題が自分のことのように気になる
▲ 小泉逆転劇は桶狭間?
▲ いちばん期待できるのは、特別会計の見直し
▲ 投書できるのも「おかげ」
▲ 「金光教宣言」に込められた願いからすれば人口減少も悪いことばかりではない
▲ 国土にふさわしい適正人口を目指せ
▲ 人口問題や食糧問題は、まずそれぞれの国境という囲いの中で解決すべし
▲ 個人の行動規範と集団の規範は違う
▲ すでにある領土を守り通そうとするのが国家の役目
▲ 中国は尖閣諸島をいつか武力で奪うつもりでいる
▲ こういう事実は我々に今の憲法で自国を守りきれるかという問題をつきつける
▲ 他国に防衛を委ねなければならぬ代償は大き過ぎる
▲ 日米関係が悪化したら、尖閣の保持もおぼつかない
▲ 尖閣問題は、憲法九条改正の是非を考えるための絶好の材料
▲ 憲法九条改正論議を難しくしているのは銘銘の生き方についての好みが絡むから
▲ いちばんの問題は、好みの問題なのにどちらかに統一しなければならないこと
▲ 改憲論者は常識的ではあるが、深刻な憂国の感情もある
▲ 九条改正反対論者にはおよそ三つのタイプ
▲ あくまで自分の気持ちを大事にして判断することこそが信仰的
▲ 結局、人は自分の好みを正当化するために理屈をつける
平成十七年十月十五日 奈良県 郡山南教会にて
苦しい時の神頼みに終始
 私の信心は、言わば「苦しい時の神頼み」から始まったものでありますが、かれこれ五十年近く経つ今も、相変わらずそこから抜け出せずにおります。
 私にとりまして信仰は、何よりもまず自分の無知無力の補いをつけてくれるものでなくてはなりません。
 いかに生きるべきかなどはその次の問題です。と言うより、そのことすらも神頼みによって手探りしていくしかないのです。
 若い頃から抱えてきた多種多様の悩みは、一生懸命神様に頼みすがるうちに、劇的に解消したものもあれば、いつのまにやら解消していたものもあります。
 しかし、いまだに持ち続けている悩みがあり、新たに加わった悩みも数多くあります。こればかりは一生なくなることはないと思います。
 そういう人生をなんとか耐えて通って来られたのは、一方でそれ以上に有り難いと思えることが増えてきているからこそなのです。
 そして何よりも、どんなつらい時でも心細い時でも、いつでもどこでも、心の中で「助けてください」「どうしたらよいか教えてください」と呼びかける対象があるということが、私の場合大きな救いになっているのです。
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そのくせ国家・社会の問題が自分のことのように気になる
 そのようにして今も抱え続ける個人的な難儀と取り組むだけでも手一杯なのに、因果なことに国家・社会の問題もまた、自分のことと同じくらい気になって仕方がないのです。
 ついこの間もこんなことがありました。
 私は震災のあった頃から、朝飯時と昼飯時にはラジオを聴くようになり、かれこれ十年ばかり経つのですが、私がずっとダイヤルを固定して聴いている局の番組が、春に大きく模様替えされました。
 朝の時間帯は、特定のいわゆるパーソナリティーと言われる人を中心とした番組ではなくて、ある元女子アナを進行役にして、いろいろな人が入れ代わりたち代わり出演する、言わば局の総力をあげて取り組んでいるような番組になったのです。
 そして、阪急塚口教会のご子息で、一昨年の奈良県集会に出演してくださった落語家の桂かい枝さんが、アシスタントとして毎回出ておられます。
 それはたいへん結構なことなのですが、その番組にご意見番的役割で電話に出てきて、毎日のニュースに対して感想を述べる、夕刊編集長のKさんの意見が、どうも私には気に入らないことが多いのです。
 この前の選挙の結果に対するコメントにしても、Kさんは批判的否定的な見解ばかりを並べるので、それはあまりに一面的過ぎないか、小泉さんとてまだそんなに捨てたものではないという気持ちを込めて、私は一千字ばかりの反論を書いて番組宛に送りました。
 夜遅くから書きはじめて、ファックスし終わったのはもう三時近くでした。
 自分の職業は伏せて、「やまとの変人」というラジオネームで送ったので、かい枝さんも気づいていないだろうと思います。
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小泉逆転劇は桶狭間?
 ところがそれから四、五日経った日の朝、思いもかけず、その中の一行だけが、今回の選挙について実に数多く寄せられたという、リスナーの意見を代表するものの一つとして紹介されたのです。
 どういうものかと言いますと「今回の小泉さんの逆転劇は、『桶狭間(おけはざま)の戦い』に匹敵する、言わば “快挙” だと思います」というものでした。
 この考えはもちろん郵政法案の是非とは関わりなく、主として政治劇、人間劇としての面白さに焦点を当てたものです。
 私は最初、参議院であの法案が否決されたことで、てっきり小泉さんの命運は尽きたと思いました。
 四年間の頑張りも最後の最後でついに徒労に終わったか、やはり政、財、官、労の既得権益の壁は厚かったのだなあ、と大いに同情し、失望もしました。今更解散して選挙をしても無駄だろうとも思いました。
 ところが例の思いもよらないあの手法です。 “良識” ある識者が「そこまでやるか」と眉をひそめたやり方をみて、私は「なるほど、そこまでやるか」と、その何ものにも屈しない心の強さ、果断さにかえって一種の感動を覚え、「これはひょっとするとひょっとするぞ」と思いはじめたのです。
 そしてあの結果を見てすぐに連想したのが、信長好きで知られる小泉さんにとって、あれはまさに桶狭間だったなあということでした。きっと誰かが同じようなことを言うだろうと思いながら新聞やテレビを見ていたのですが、意外と誰も言い出さないので、たまたま私が投書の中で使ってみたところ、スタッフの採用するところとなったものと思われます。
 もっとも、最近の史家の有力な説によりますと、軍記や小説で様々な尾ひれがついてしまったけれど、実際の桶狭間の戦いは、それほどの奇襲ではなかったというのです。今川義元は別に京を目指していたわけではなく、義元を討てたのも予期せぬ戦果であった、ということらしいです。
 もしそうだとしたら、小泉さんのしたことは桶狭間以上ということになります。
 もう一つ良いことは、今は、国内ではどんなに思い切ったことをしても、命のやり取りまではしなくてよいということです。それについては小泉さん自身も似たようなことを言っています。
 このように、政治劇としてはすごい快挙ではあるのですが、肝心の法案が果たして我々に幸せをもたらすのかどうかについては、民営化という基本線が定まったばかりでまだまだ未知数です。
 これから年月をかけて実際の運営を見守って、修正を加えていくしかないと思います。
 また信者さんや親戚知人の中にも郵便関係者がおられます。
 その方たちにも結局はプラスになる改革であってほしいと思います。
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いちばん期待できるのは、特別会計の見直し
 それより何より、小泉さんが力を得たことでこれから私が一番期待できることは、国の特別会計というものにメスが入れられるようになったことです。
 これまで、私自身を含めて国民のほとんどが無知無関心のままで見過ごしてきた国の財政に、特別会計というのがあります。それは酒税や、タバコ税や、ガソリン税や、電気代に含まれる税などとして入ってくるお金で、その使い道は、特別会計として、関係各省庁のお役人たちの管理に任されているのです。郵便貯金や国民健康保険税もそうです。
 現在国会で審議して決められる国家予算は約八十兆円です。しかもそこから何割かは借金の返済にあてねばなりません。それに対して特別会計は、総額四百兆円を超えて通常予算の五倍にも達するのです。
 国の借金が一千兆円に達しようかというときに、それだけ巨額のお金が、これまではほとんどチェックを受けないままに、各省庁のお役人と、それに関わりの深い族議員と言われる人々によって、国の借金とは無関係に好き放題に使われていたのです。それが利益誘導の温床、天下りの温床、省益追求の温床となり、無責任体質、赤字体質、問題先送り体質なども生んでいるのです。
 四年前小泉さんが特別会計に手をつけると言い出したときは、族議員や派閥の親分たちの猛反対にあって思うようにいきませんでした。ところが今度の選挙でその種の抵抗はほとんど排除され、次は官僚との戦いであると言われています。小泉さんも早々と特別会計の見直しを宣言しました。
 思えば、道路公団改革、郵政改革もその第一歩でした。したたかで頭の切れるお役人相手に、どこまで現状を変えることができるのか、アラ捜しはほどほどにして、私は注目していきたいと思っているのです。
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投書できるのも「おかげ」
 そんな思いをいちいち夜なべまでして投書したところで、一円の得にもならないのですが(今回は番組グッズが送られてきました)、あまりに自分の考えとかけ離れた意見に対しては、つい熱くなって反論せずにおれないのです。
 また、そうすることができることが、私のいただいている「おかげ」なんだとも考えているのです。
 それに今回は、自分の考えがたとえ一行でも採用されたことで、同時にそれは、他のところもちゃんと読みましたよ、Kさんには確かに手渡しますよ(相当手厳しいことも書いたのですが)、というスタッフの無言のサインとも受け取れて、気持ちが救われました。
 とかく困難に満ちた日常に、ちょっぴり元気を注入してくれた出来事となりました。

 こういうふうに私なりのささやかな「おかげ話」を枕にふって、このまま国家、社会と信心ということで話を続けさせていただきたいと思います。
 今ここにおられる皆様方を前にして、少し場違いなことかもしれないのですが、私はその時その時で一番関心のあることしか本気でしゃべれないのです。
 個人的な悩みは山ほどかかえていても、そんなことはここで話しても仕方がないことばかりですから、そういう話がかえって当たり障りがない、という意味もあります。
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「金光教宣言」に込められた願いからすれば人口減少も悪いことばかりではない
 今は我国では出生率の低下ということが心配されています。
 小泉内閣も少子高齢化対策ということに力を入れると言っております。
 これ以上人口が減ると、景気が悪くなるとか、人手不足になるとか、年金制度が維持できなくなるとか、いろいろ心配されていますが、長期的な視野で考えますと、悪いことばかりではないように思うのです。

 一昔前の教団の「宣言」の中に、「自然の生命を重んじ、自然と人間が調和する社会を求めていく」という文言がありました。今はだいぶ表現が変わりました。
 多分それは、人間があたかも天地自然を人為的に操作できるかのごとき発想に立つことへの反省とか警戒心からだと思いますが、そういう願いを持つこと自体は、私はそんなに悪いことではないと思います。
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国土にふさわしい適正人口を目指せ
 そういう視野から考えてみますに、わが国民が、野性の動植物と調和共存し、しかも食料の大部分を自給して生きるためには、国土にふさわしい適正人口というものがあるように思うのです。
 食いつめた熊さんが里に現れるごとに大騒ぎしなくてもよいような自然環境を確保するには、そしてまた、今ほど食料を大きく輸入に頼らなくてすむには、その適正人口はどれくらいなのか、という視点もいると思うのですが、少子化対策を論じるNHKのあるテレビ番組での討論を見ていても、そういう発言をする人が一人もいませんでした。
 その数値を割り出して(ごくあてずっぽうで五千万くらい?)、人口をそれに近づけるように方途を講じるべきだと私は思うのです。人口が減りはじめた今がチャンスだと思います。
 人口減に伴う弊害をできるだけ少なくしながら、その適正人口まで軟着陸して、以後はうまくそれを維持する方策をとり続けるべきだと思うのです。
 江戸時代には、間引きというちょっと乱暴な方法でそれを行なっていました。
 戦前は、人口増を領土拡大や南米などへの移民でしのごうとし、戦後もしばらくは移民政策が続きましたが、今はもうそんな時代ではありません。
 また、人手が足りないからといって、安易に外国人を受け入れますと、社会がそれだけ不安定になります。
 これからは大国になる必要も、領土を拡張する必要もありません。今ある領土と日本語文化というものをしっかり守っていけさえすれば、それでいいのです(本来の領土は取り戻したいですけどね)。
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人口問題や食糧問題は、まずそれぞれの国境という囲いの中で解決すべし
 また、いくらこれからは地球市民の時代だ、ボーダレスの時代だといっても、その前に、それぞれの国境という囲いの中でまず解決しておかねばならぬことがいっぱいあると思うのです。
 国境や国籍というものの重要性は、そう簡単には低くならないと思います。特に人口問題や食料問題などは、できるだけ他国に依存せずに、自国内だけで解決するようになるのが望ましいのです。
 地球規模では、人口はこの先もしばらくは増加の道をたどるようです。
 しかし、そういう人口過剰による貧困の問題などの解決を、国外に求めようといたしますと、他の国に大きな迷惑がかかり、世界の大きな不安定要因になります。
 現に我国も、外国の密入国斡旋組織による不法入国に悩まされております。
 今では輸出食料を、いざという時の重要な戦略物資、つまりは武器と位置づけている国もあります。それなのに我国は、先進国の中では、食料自給率が飛び抜けて低くなってしまいました。
 これは外国に対する警戒心のなさ、精神的な無防備さの現れでもあります。
 金さえ払えばいつでも何でも手に入る、いつでも売ってもらえると安心しきっているのです。
 私は普段はいたって質素な生活をしておりますが、それでも、少々値段が高くても、農産物だけはできるだけ国産を買うようにしています。
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個人の行動規範と集団の規範は違う
 このように外国との関係を考えるとき、いつも私が強く意識させられますのは、個人の行動規範と集団の行動規範の違いということです。
 教典の中にこういう話が出てきます。

 齋藤宗次郎という人が、分家である隣人との間にいさかいが生じ、ついに分家の方から本家を義絶するという事態になってしまいました。齋藤さんがそのことを教祖様にお伺いすると、教祖は、『…大木でも根から切って逆さまにつっておいてみよ。それで枝葉が栄えるか。負けてやれ。時節に任せ。神様へ気を入れて、万事お繰り合わせを願え。先を見よ』と教えられました。
しかもそれだけにとどまらず、『隣分家の人が先でいかほど不都合になるとも、よい気味じゃと言うなよ。あの人はただいまはお気の毒なりと言うておれよ』とも言われたのです。

 この方はどうやら家の境界線のことなどでもめていたらしいのです。隣人が屋敷の境ぐいを夜の間に抜いたので、すぐ教祖にお届けされますと、『それは境がいるから抜いたのじゃ。負けてやれ。先を楽しめよ。打ち向かう者には負けて、時節に任せよ。…』との教えがありました。
 齋藤さんはそれらの教えに従ったのでしょうか。こう書き残しておられます。

 『…その後、右の夜の間に境ぐい抜いた人は、八年後には国を立ち退き、散り散りばらばらになってしまい、または生き別れになり、跡は野原となり、まことにただいまはお気の毒である』と…。

 教祖はまた、難波教会の初代、近藤藤守先生には『信心する人は、人に頭をたたかれても、私の頭は痛みませんが、あなたの手は痛みませんか、という心になり、また、頭から小便をかけられても、ぬくい雨が降ってきたと思えばよい』と教えられました。
 また、石田友助という人は『信心の道で論争があった時には、必ず堪忍して負けて勝て。その方がおかげであると思え。勝ったら、おかげを落としたと思え』と一度ならずお話があった」と伝えています。

 こうした一連の教えの中に、人と対立しそうになったときの教祖様の基本姿勢や、対立する立場の人に持っておられた思いが鮮やかに示されています。
 なかなか実行のできることではありませんが、かといって、個人の振舞としてはまったく実行不可能というわけでもありません。
 ひとたびこういう教えに接してしまいますと、大なり小なり何らかの影響は受けざるを得ないものです。
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すでにある領土を守り通そうとするのが国家の役目
 ところが、境ぐいの話は個人と個人の間の話ですみますが、国家と国家の間の問題となりますと同じようにはいきません。
 例えば、我国はロシアや韓国や中国との間に、難しい島の領有権問題を抱えています。こればかりは「負けて勝て」「欲しがるものはやってしまえ」というわけにもいかないと思います。
 言うべきことはどこまでも主張していかねばならないのが外交というものだし、すでにある領土を守り通そうとするのが国家の役目です。
 北方四島と竹島は、すでに敗戦のどさくさに力で押さえられてしまっており、よほど粘り強く交渉を重ねても、普通の交渉で解決できる見込みはありません。
 
 その上、今では南の尖閣諸島の領有さえも危ぶまれるようになりました。
 尖閣諸島はもともと日本の領有が国際的に認められていて、敗戦後も何の問題もなかったのです。ちゃんと所有者もいます。
 それなのに、近くの海中に石油が埋蔵されていることがわかった途端、中国がにわかに領有権を主張しだしたのです。そして日本の領海内でありながら、発掘もままならないことになってしまっているのです。
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中国は尖閣諸島をいつか武力で奪うつもりでいる
 そしてはっきりしていることは、中国はいつか必ず武力でそこを奪い取るつもりでいるということです。
 なぜそういうことが言えるかといいますと、過去数十年間、領有権争いにおいて中国はいつも必ずそうしてきたからです。
 まず、南シナ海の海底資源が豊かであることがわかって、西沙諸島をベトナムから奪いました。
 同じ共産主義国でありながら、両国の仲がよくないのはそのせいでもあります。
 次いで、南沙諸島をも奪い取りました。
 ここはベトナムやフィリピンなど数カ国が、それぞれが一部の領有権を主張して守備隊などを置いていたのですが、中国はそれら全部の領有権を主張して、武力で奪い取ってしまったのです。
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こういう事実は我々に今の憲法で自国を守りきれるかという問題をつきつける
 こういう事実は、もう一つの悩ましい問題を我々信心する者につきつけてまいります。
 それは、今の国際情勢の中で絶対平和主義は可能なのかどうか、今の憲法のままで自国の領土を守りきれるものなのか、国際社会を渡っていけるものなのかどうか、などという問題です。
 個人の規範としては、教祖様は徹底して人と争わない生き方を実践され、人にもそれを説かれました。
 なかなかできることではないのですけれど、これも自分一人の事ならば、絶対不可能というわけでもありません。完璧とまではいかなくても、ある程度までは真似ができるのです。
 そしてその結果も、自分一人が引き受ければすむことなのです。
 しかし、そういう行き方をそのまま集団と集団、国と国との関係にも当てはめることができるかどうかが問われてくるのです。
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他国に防衛を委ねなければならぬ代償は大き過ぎる
 中国がいまだ尖閣に手を出さないでいるのは、ひとえに日米安全保障条約のおかげであります。
 後ろにアメリカがついているから手を出さないだけなのです。
 その日米安保というのは、日本が外国から攻められた時、アメリカは日本を守るが、その逆の場合、日本はアメリカを守らなくてもよいという一方的なものです。
 結構なことのようではありますが、そのかわり、その代償は当然のことながら飛び切り高くついています。
 国の安全の確保という一番重要な事柄をアメリカに委ねるのでありますから、アメリカの従属国として、ある程度言いなりになるしかないのです。
 とりわけ経済問題では、これまでアメリカの国益に合わせてずいぶん無理難題を押しつけられてきました。
 ロッキード事件をめぐるCIAの謀略で田中角栄がつぶされたのも、彼が “生意気にも” 自主独立路線を歩もうとしたせいだと言われています。
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日米関係が悪化したら、尖閣の保持もおぼつかない
 また、今のようにイラク復興に自衛隊を派遣して協力したりして、日米関係が良好なときはよいのですが。
 以前、貿易黒字が増えすぎたりして、日米関係が悪化しかけた時など、たとえ日米安保があっても、領土問題にはアメリカは関与しないと言い出したことがありました。その途端に中国は尖閣諸島の領有権を強く主張しはじめ、裏でアメリカの石油資本が糸を引いているとも取り沙汰されました。

 一九九五年になると、中国はフィリピンが統治していた南沙諸島の一端のミスチーフという環礁を占領して、そこに軍事基地を建設しました。フィリピンはアメリカの同盟国ですが、遠方の島や環礁は軍事支援の対象外とされていたことを見越して、奇襲をかけたのでした。
 このことは東南アジア各国に大きな衝撃を与え、他国の領土紛争にはかかわらないという姿勢をとっていたアメリカも、さすがに警告の声明を発表しました。
 しかし結局は、フィリピン政府はそのまま泣き寝入りです。

 その後中国はますます海軍力の増強に力を入れ、しかも東シナ海の日中中間線近くでの天然ガス開発作業を強行しつつあります。日本が同じことをしようものなら、きっと強く脅して阻止しようとするでしょう。
 そういう国に対して、日本は毎年多額の経済援助を続けさせられているのです。
 尖閣諸島も、これから先の日米関係次第で、いつまでも守ってもらえるかどうか保証のかぎりではありません。またアメリカと対等になりたいと望むならば、対等に軍事支援しあえる条約に変えなければならないのですが、今の憲法の制約があって、それができないことになっています。
 アメリカ一国だけではなく、他の国々との集団安全保障の輪にも加われないのです。
 イラクに自衛隊を派遣しても、他国の軍隊に守ってもらわねばならないというような、外国から見ればきわめて喜劇的な状況が生まれてしまうのです。
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尖閣問題は、憲法九条改正の是非を考えるための絶好の材料
 今度の選挙の結果、憲法の改正ということもかなり現実味を帯びてきました。その是非を考える際には、例えば尖閣問題は、具体的な問題を通して九条改正の是非を考えるための絶好の材料になります。
 今の九条をそのままにしておいて尖閣諸島を守りきれるのかというふうに…。

 尖閣諸島問題の平和的解決が可能だと主張する人々は、今ももちろんいます。その主たる人々は、今や悪名高いと言ってもよい、中国で教育を受けたチャイナスクールといわれるグループの人々です。
 その人たちの中には、まるで中国の秘密工作員ではないかと思われるほど、中国寄りの考え方をする人たちがいます。しかも、一部のメディアが強力にその後押しをしているのです。
 この人達の考えは、最初から、尖閣は日本の領土であるという考えから一歩退いてしまって、中国もまた同じように考えているのだから五分五分だというふうに考えます。
 そして、中国が口にする「共同開発」というスローガンに乗りかかるよう提唱するのです。
 そもそも中国が尖閣をはじめから本気で自分の領土だと考えていたのだとしたら、「共同開発」などということを持ち出すはずがないのです。しかも向こうには、本気で「共同開発」など進める気はないのです。
 中国の言い分は、勝手に隣家の庭に入り込んで、一緒に花を植えませんかと言っているようなものです。
 それなのにこの人達は、中国側の言い分や侵犯行為にのみ深い理解と同情を示し、それに反発する日本の動きに対しては、「いたずらに相手を刺激するような行為を控えることだ」とか、「大局を見据えていない」と批判を加えるのです。
 そしてこの人達は、中国がどれほど軍備を増強しようが、言うまでもなく憲法改正には反対なのです。
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憲法九条改正論議を難しくしているのは銘銘の生き方についての好みが絡むから
 いずれにせよ憲法論議はこれからますます紛糾するだろうと思います。
 この問題を難しくしているのは、実は生き方の好みの問題が多分にからんでいるからではなかろうかと私は思うのです。
 個人の行動規範と集団のそれとは違うと言っても、どうしても同一視してしまう人もいるわけです。
 うどんが好きか、ラーメンが好きかという好き嫌いの問題を、うどんを食うのが正しいか、ラーメンを食うのが正しいかという、正邪善悪の問題として論じることが、議論を一層複雑に深刻にしているのであることに、私は最近やっと気がつきました。

 こういうことは正しいか間違っているかの問題ではなく、生き方の好みのからむ問題なのですから、ある限度以上は、好みの違う人を説得しきることはできないし、他人に自分の好みを押しつける権利もないのです。それがわかっていれば、お互いに意見の違いで憎み合うことも少なくなるだろうし、水掛け論や言い負かし合戦の泥沼にはまることもありません。
 宗教者の中には、絶対平和主義的な考えから、憲法九条を死守したいという、今の社民党などと同じ立場をとる人も多かろうと思います。この人達の考えは「駄目なものは駄目」という土井元党首の言葉に象徴されるように、結局は理屈抜きの、説得不可能な信念なのです。
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いちばんの問題は、好みの問題なのにどちらかに統一しなければならないこと
 いちばんの問題は、めいめい好きな方をとればよいというのではなくて、うどんにするか、ラーメンにするか、改めてどちらかに統一しなければならないということです。
 お互いに説得不可能、押しつけ不可能の考え方ではあるけれども、そろそろどちらかに決め直さなければならない、という決断をせまられているのです。
 最後は、お互いの好みを尊重しつつも、やはり多数決に従うしかないと思います。
 めいめい好きなほうをとればよいというわけにいかないのです。
 どちらかが、いやでも一方に合わせなければならないのです。
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改憲論者は常識的ではあるが、深刻な憂国の感情もある
 改憲を進めようとする人々は、細かい違いはあっても、要するに、武力には武力で対抗するしかない、また拮抗する武力は侵略の抑止力になる、という常識論者です。
 力の差がありすぎるフィリピンは、ミスチーフ環礁を簡単に奪われてしまいましたけれど、アメリカが後ろ楯になっている間は、中国も尖閣に手をだせません。
 日本の自衛隊にしても、法的に大きな不備はあっても、かなりの抑止力にはなっているはずだと常識論者は考えます。そして自衛隊がもっとまともに機能するような法整備をしてほしいと考えるのです。

 また、賛成論者の中には、単なる常識論ではなく、もっと根本的な真剣な問題意識として、まっとうな憲法と軍備なくして一国の独立は保てない、という思いがあります。
 それがないために敗戦後六十年経った今も、我国の独立性は著しく損なわれたままである、それが国民の精神をも著しく蝕んでいる、という深刻な憂国の感情があるのです。
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九条改正反対論者にはおよそ三つのタイプ
 それに対して、九条改正反対論者にはおよそ三つのタイプが考えられます。

 一つ目は、武力など持たなくても、他国に侵略されずに仲良くやっていく方法はある、という楽天家、もしくは理想主義者タイプです。

 二つ目は、たとえ人に殺されても人を殺すのは嫌、武力を持たぬために他国に領土を奪われたり、侵略されたりしたとしても、こちらは武力を行使してはならないと考える、徹底した平和主義者タイプです。
 宗教的信念からそう考える人は少なくないと思います。
 実際にはほとんど一と二を兼ねたタイプの人々が多いと思われます。これらの考え方の弱みは、やはり常識的に考えてリスクが大き過ぎる、予想しうる結果に対して無責任過ぎる、独り善がり過ぎるということでしょうか。しかしそれも、どうなろうとそういう生き方ないしは行き方が自分たちの好みなのだ、と言われてしまえばそれまでのことです。と同時にその好みを、好みの違う人たちに押しつけることも不可能なのです。
 昔の革新政党の人々の中には(しかも中心部に)、そのように日本を無防備にしておいて、社会主義陣営の国に侵略してもらって、自分たちの政権をうち立てるのだと真剣に考えていた人たちがいたようですが、今はどう考えているのでしょうかね。

 見受けられる三つ目のタイプとしては、とにかく戦争に行くのは嫌、家族を行かせるのも嫌、という人々です。それ以上のことは、国がどうなろうと、自分の知ったことではない、嫌なものは嫌だと言い張っても、今の我国では、結構正義の主張、庶民の切実な声として通用してしまうのです。
 実際には、改憲に反対の政治家がなんとかしてくれるだろう、という徹底した無責任タイプ、あるいは、アメリカが守ってくれるなら、属国のままでも何でもいい、現状を変えたくない、という他者依存タイプなのですが、こういう人たちが意外と多くて、新聞の一つの調査によれば、今は護憲派が改憲派を上回っているらしいのです。
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あくまで自分の気持ちを大事にして判断することこそが信仰的
 私自身はこういうことを判断するにあたって、信心するものとして、教えがどうであろうと、建前ではなく、あくまで自分の気持ちを大事にして判断することこそが信仰的なことなのだと考えております。
 と言いましても、いま言ったような、単に嫌なものは嫌と主張したいのではなく、自分の中に同時にある全ての気持ちを大事にして、それらの間に折り合いをつけていきたいわけです。
 それに、平和主義の方が常識的であることよりも信仰的だとも良心的だとも純粋だとも思いません。
 その逆であるとも思いませんが、護憲論者の中には、ずいぶん能天気な人や身勝手な人や無責任な人がいます。国を憎み、密かに日本が滅びればよいと考える人たちさえいます。
 更に言うなら、平和主義を唱える人たちが、個人の生き方として、教祖の教えられたような生き方を、必ずしも実行できる人たちだとはかぎらないとも思っています。

 この道の信心をする人(或いは関係者)でも考え方はまちまちです。
 政治評論家で、熱心な信者であった伊藤昌哉さんは、池田内閣の中枢にあって、国際社会の中でまっとうな軍備を持たない日本が、真の独立国家でないことの悲哀と悔しさを身に染みて味わい、真剣に国の行く末を憂える改憲論者でした。
 反対論としては、昨年、松本侑子という作家の憲法改正反対論が「通販生活」というカタログ雑誌に掲載されていました。この方はニュースステーションにも出ていたことのある、いわゆる「美人作家」ですが、この方の著書が、金光図書館ではどういうわけか教団関係者の著書の書棚に置いてあるのです。
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結局、人は自分の好みを正当化するために理屈をつける
 「通販生活」は、風変わりな、しかも政治的に少し偏った立場の雑誌で、毎号識者文化人の憲法九条改正反対論を掲載しています。
 それらを読むたびに、人によってこうも考えることが違うものかと、人間の考え方の、あまりの多様性に、少しうんざりした気分を味わうのです。
 護憲派の人たちもまた、どんな理屈をつけてでも “既得権” を守ろうとするのだな、とも思います。結局、人はひたすら自分の好みを正当化するために、理屈をひねり出すものなのですね。
 そして読む人の好みによって、同じ理屈でも、心にすっと響く理屈と響かない理屈があるようです。
 しかし、自分ではどちらとも好みのはっきりしない人々も多いわけで、そういう人たちに対しては、理屈はある程度人の意見を左右する効力がありそうに思うのです。
 これからは、そういう人たちをそれぞれの陣営に取り込むために、ますます熾烈な綱引きが続けられるものと思います。
 
 これから先、世論がどう変化していくか、まったく予想がつきませんが、我々信心する者をも巻き込むであろう熱い論争を考えるにあたって、この国の行く末について、私が日頃真剣に考えさせられ、悩み、憂えているところを聞いていただいたのであります。
 場違いな話かと思わないでもなかったのですが、しかしながら、これらのことは、ここにおられるどなたにとっても、どうでもよい話ではありません。信心する誰もが一度は真剣に向き合わねばならぬ極めて身近な問題である、と思い直して、あえて話をさせて頂きました。
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談話室より
  toramaruさん(男 教会長) H. 18.11.16

わたしは、うどんも好き、ラーメンも好きです。
日本人も好き。中国人も好きです。
* 好きになる
* 信じる
* 尽くす
5年前になくなった信者さんのモットーでした。わたしは、これが信心だと思っています。


当教会長より

貴重なご意見を有難うございました(談話室開設まで、たいへんお待たせしてしまいました)。
この談話室を和やかでしかも充実したコーナーにしたいと思いますので、できるだけ論争の形になるのは避けたいと思います。 最低限の補足を加えさせて頂くとしますなら、「うどんも好き、ラーメンも好き」というのは、私の使った比喩の流れからするならば、憲法を変えても変えなくてもどちらでもよい、という論法になりますが、多分、そういうことをおっしゃりたいのではないだろうと推察いたします。 それから、私自身は、日本人であろうと、中国人であろうと、ウソをつく人たちや身勝手な人たちが嫌いです(嫌いなことは他にもいっぱいありますが)。そのことについては、次回に掲載する話である程度触れさせていただきます。
     ………………………………………………………

M.Oさん(男73歳) H .18.12.8

「人口論に対する見解」
日本の適正人口として、食糧自給の可能な範囲である5千万程とする論にはかなり問題があります。食糧自給を無理に目指すと、工業を犠牲にしなければならないというジレンマが生じます。
食糧生産は現代では膨大なエネルギーの消費によって成り立っています。今のように豊かな食生活をエネルギー無しで自給しようと思うと、1千万人でも無理でしょう。畜産物など、それを生産する餌は殆ど全部輸入に頼らざるを得ず、自給は絶望的です。
食糧生産はエネルギー次第と云える一面があり、長期的には核融合も期待できるので、今はそれよりも、工業をはじめとする諸産業を盛んにして、エネルギーと食糧の輸入代金を稼ぐ事に力をいれる方が現実的かと思います。
工業を盛んにするには、スケールメリットと消費市場を考えれば、1億を下らぬ人口が有利です。自動車産業の隆盛はその良き例です。
急激な人口減少は、年金問題の解決を困難にします。国土は荒廃し、文化伝統は甚だしく毀損されるでしょう。現状維持か微減にとどめるようにするべきです。戦前には少子化如き問題はなかったのですから、それをヒントにすれば自ずから問題を解決する鍵は見つかるでしょう。


教会長より

さすが、農業生産や畜産を専門分野とした人の見識は違いますね。
それでも、工業の振興と、自然環境の保持回復が両立する日のくることを、祈願せずにおれません。

教会長よりH.27.12.19
これを話した10年前は、尖閣諸島や南沙西沙諸島の問題は、古森義久さんなど、一部の人達が警告を発するだけで、一般にはまだほとんど関心を持たれていませんでした。私自身、南沙西沙と言っても、地理的にあまりピンと来ないのでした(今でもたいして変わりませんが)。
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