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金光教高田教会、我が信心を語る
13 どんな手を使ってでも助けて下さる
大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。
もくじ
▲ 「救いの手」がなかったら、もっと苦労していた
▲ 必要とあれば神様はどんな手を使ってでも助けて下さる
▲ もっとも印象に残る話をひとつ
▲ 父倒産、進学断念、十三歳で入信
▲ 苦学する少年に目覚ましい神助
▲ こういう話が好きな人も嫌いな人もいるが、心の深いところで私を元気づけてくれる
▲ 今の人は今の人なりに生きていけば手を差しのべてもらえる
平成二十一年三月二十二日 奈良県 桜井教会にて
「救いの手」がなかったら、もっと苦労していた
 相も変わらず多くの悩みをかかえて生きております。自分の無力さを思い知らされぬ日は一日もありません。身体的な悩みなら、長生きさせていただくにつれ、この先ますます増えることはあっても減ることはないでしょう。
 その一方で、感謝感謝の日々でもあります。心配に押しつぶされることもなく、いよいよ行き詰まることもなく、なんとか今までしのいで来れましたのは、ひとえに神信心のおかげであると思っています。
 昔と比べれば、夢のような境遇と生活環境に恵まれた中での苦労であります。悩み事であります。それも、ごくたまにヒョイヒョイと差し伸べてくださった、不思議としか言いようのない「救いの手」がなかったならば、もっともっと苦労しなければならなかったことだろうとも思います。
 「信心しておかげのあるを不思議とは言うまじきものぞ」と教えられていますので、不思議とか奇跡とかいう言葉は、お道ではあまり使いません。そのかわり「おかげをいただく」という言い方をします。この言葉の意味はまことに広いので、その一部分をもう少し細かく言いますと、祈願が成就するとか、お繰り合わせを頂くとか、立ち行かせてもらうとか言い方もいたします。
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必要とあれば神様はどんな手を使ってでも助けて下さる
 人によりますと、そういうのを「ご利益信心」だの「おかげ信心」だのと言って軽蔑する向きもあります。宗教のもたらす救いというものは、そういうものではなくて、もっと「人は何故生きるのか」とか、「人は如何に生きるべきか」を知りたいという、人間にとっての根本的な要求に応えていくものでなければならないというのであります。
 まあ、しかし、そんなことの言える人は、かなり恵まれた人に違いありません。能力的にも身体的にも経済的にも、きっと恵まれた人なのです。
 私自身にもそういう要求がないとは言えませんが、基本はいつも苦しい時の神頼みでありました。事実それで助けられてきたのです。いつも奇跡のようなことをあてにしているわけではありません。しかし、この世に奇跡が起こりうるということは、私はとてもすばらしいことだと思います。心強いことに思います。有難いことだと思います。
 奇跡などというものはめったに起こるものではありません。起こらないからこそ、起これば奇跡なんです。そんな奇跡が、果たして求めて得られるものなのか、得られないものなのか、何とも断定はできません。ただ、神様のなさることを、人間がえらそうに勝手に決めつけないようにしたいとは思います。
 そして、必要とあれば神様はどんな手を使ってでも助けて下さる、と信じられる方が幸せであると思うのです。そのことが、私の場合、生きる上に大きな勇気を与えてくれています。困難に耐え、乗り越えていく力を与えてくれるのであり 私がこれまでに経験した数々のことは、奇跡というほど大げさなものではなく、せいぜいめったに起こりえない偶然の出来事、しかし絶対に起こりえないことではない偶然、という程度のことではありますが、それでも、それらのことでどれだけ救われ勇気づけられてきたことか、計り知れません。
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もっとも印象に残る話をひとつ
 そんな確率論を持ち出す余地もないような、これこそが奇跡と思えるような話も、これまでにいろいろと聞いたり読んだりしてきました。その中でも、もっとも印象に残っているのはやっぱりこれかな、と思うものをひとつ紹介してみたいと思います(金光教祖様の身に起きた数々の奇跡については、改めて言うまでもないことでありましょうから、ここでは触れません)。
 昨年本部からいただいた布教功労者報徳祭の新霊神名簿の中に、信州上田教会の須賀院義雄先生の名前を発見しました。享年百歳とありました。ということは、私が初めてお会いしてからもう五十年近く経ちますので、その頃は五十過ぎであられたことになります。
 その頃、教内の各地方に学生会というのがありまして、その全国組織の役員の会議が信州のある温泉地で開かれたことがありました。私もその一人として加わっていたのですが、その時、最寄りの場所にあった上田教会に揃って参拝しました。その頃はまだそれほど大きな教会ではなかったように思います。その時応対してくださったのが、初代教会長であられたその須賀院義雄先生でした。優しさの中にどことなく威厳を感じさせられる方であるとは思いましたが、その時はそれ以上の印象は受けませんでした。
 当時「国光」と言っていた品種の信州リンゴの、今にして思えば、新鮮で大振りな上等のものを剥いて切り身にして、皆に勧めてくださいました。今でこそリンゴは大好きで、健康の為にも毎日少しずつは欠かしませんが、その頃はまだそれほど好きではなかったので、変なものを勧めなさるなあと思ったことが妙に記憶に残っております。
 その後十数年を経た昭和四十七年に、須賀院先生の「お道のおかげ」と題する著書が出版され、師が並外れて純粋で熱烈な信仰実践や修行を積み重ねて来られた方で、道の教師になられるまで、とても波乱に富んだ半生を送ってこられたことをはじめて知りました。
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父倒産、進学断念、十三歳で入信
 その信心ぶりはまことに純粋で、ひたむきで、実意で、なさること全てが、私などのキャラクターとはまるでかけ離れておりまして、真似たくても真似のしようがないのでありますが、師はそれによって、それまでの仕事の上でも、その後の布教の上でも、目覚ましい「おかげ」を受けられ、大きな実績を上げておられたのであります。
 中でも目を見張りましたのは、小学校教員の検定試験を受けられた時の話でありました。師は福井県の生まれで、師が小学校六年生であられた十三歳のとき、経済恐慌のあおりを受けてお父さんの事業が倒産し、一家は裏長屋での極貧生活に転落されたのであります。伯母さんの勧めで親子揃ってお道に入信され、福井教会に参拝されるようになったのがその頃のことであります。
 成績がよくて級長をしておられたので、担任の先生から中学進学を勧められたのですが、そういう家庭の事情から断念せざるを得ず、費用のかからない高等小学校に進むことにされたのです。
 ところが四月一日になって、師が玄関を手ぼうきで掃いておられますと、一軒おいた隣の息子さんが、福井中学の制帽に羽織を着て母親と一緒に入学式に向かうのが見えました。それがうらやましくて、思わず手ぼうきを地面に落としたことにも気づかずに見とれておられました。すると家の中から「義雄、ご飯だよ」と呼ぶお母さんの声がしたのです。振り向くと、お母さんの両眼には涙がいっぱい溢れていました。
 その晩、その話を聞いたらしいお父さんからも自分の不甲斐なさを詫びられ、師は両親にとても悪いことをしてしまったと思われました。その後、初めてお父さんに連れられて福井教会に参拝され、そこの先生から、親に孝行する気があれば、どんなことでも聞いてくださる神様であると言われたことが、ことのほか心に響いたといいます(親不幸であった私には、まことに耳の痛い教えではありますが)。
 以後、たとえ吹雪の日でも欠かすことなく、両親を安心させたいという一念で、教会への朝参りを続けられました。勉強にも打ち込まれました。
 二年後、再び先生から、授業料免除の方途を講じてあげるから中学に進みなさいと勧められたのですが(当時は高等小学校二年終了後からも中学に進学できました)、家の事情を考えると、やはりとてもそんなことは言い出せず、断念されました。そのかわり、昼間はお父さんの仕事を手伝いながら、年上の人たちに交じって夜学に通われるようになりました。
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苦学する少年に目覚ましい神助
 十六歳になられたときの夏、同じ夜学に通う年上の人から、小学校教員の検定試験を一緒に受けてみないかと誘われました。それに受かると、中学卒業程度の学力があると認定され、上級の学校に進む資格も得られるので、受けてみることにされたのです。
 試験は福井県庁で九月一日から一週間にわたって行なわれました。夜学の夏休み期間を利用して猛勉強をされたのはもちろんでありますが、受験される朝、家に祀られた神前にぬかずいてお祈りをされました。
 合格できるようにというよりは、この試験に合格すれば、中学卒業程度の実力が確かめられますので、中学に行けないことでつらい思いをさせている両親を何とか安心させることができますように、との思いのみで頭を下げておられたとのことでした。
 するとそのとき、畳の上にどこからともなく一枚の藁半紙が現れたのです。そこに第一時間目の博物科の問題が、一番から五番まで克明に書かれていたのですが、あっと思ったときにはそれは消えてしまっていました。
 そのようにして、師が三百六十四名の受験者中最年少で全科目に合格されたことが、十月十日の福井日報で写真入りで報じられましたが、家が新聞も購読できない状態にあった師は、近所の人や友達の知らせで初めてそれを知ったのです。明くる日、福井市長の手から、最年少でしかも全科目一度で合格したことへの賛辞と共に合格証書が授与されました。
 この話は、実は最初に発表された約二十年後の平成二年に出版された「愛と真、優しさと厳しさ」という著書の第一集にも書かれておりまして、その両方を突き合せながら紹介させてもらっているのでありますが、わら半紙の話の部分は、最初の著書では割合簡単にあっさりと述べられているに過ぎません。それでも相当なインパクトがあったのであります。ところが後の方の著書では、さらにもっと詳しく述べられているのです。
 それによりますと、その時の第一問は「そら豆の花を図解し、その名称及び作用を述べよ」だったそうで、しかも藁半紙は連日にわたって十一科目全部が眼前に現れ、最後の唱歌と体操の二科目だけは、器具を使うので現場でお知らせを頂かれたのだといいます。
 師はその後鉄道に就職され、職場の難関であった鉄道省中央教習所にも入られて、働きながら日本大学も卒業されました。
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こういう話が好きな人も嫌いな人もいるが、心の深いところで私を元気づけてくれる
 そういう須賀院先生のような心がけは、私にはとても真似できないのですが、それでもこういう話は私は好きです。と言いますのも、スケールはもっと小さいけれど、私自身がある程度そういう救われ方をしてきたからであろうと思います。自分の心がけの如何にかかわらず、神様に頼りながら自分なりに一生懸命生きていくならば、必ず手を差し伸べてくださるという確信が、こういう話を聞かしてもらうと一層強められる思いがするのであります。
 人によると、こういう話は信じないかもしれません。頭から拒否反応を示す人もいるかもしれません。信心をする人でも、こういう話があまり好きでなさそうな人も、結構おられます。
 今取り上げた「愛と真、優しさと厳しさ」という本の第二集に、今はもう亡くなられましたが、信州大学の教授で上田教会で熱心に信心しておられた隅田隆太郎氏が、第一集の感想を書いておられます。この方には私は何度もお会いしたことがあり、信徒の立場で講話をなさるのも読んだり聴いたりさせせてもらったことがあります。学者らしく、あくまで合理性を重んじ、人間的な向上成長を信仰に求めるといったスタイルの信心であったと思います。幸せとかおかげとかは、それを目的に追い求めるものではなくして、あくまで自分の生き方を改めていく結果として得られるものだという考え方だろうと推察します。恐らくそれが正論であろうと思うのです。
 したがって隅田さんはこの話についても、若い人が勉強しなくても一生懸命ご祈念をしていれば神様から教えてもらえると思ってしまわないか気がかりだ、といった懸念を表明しておられます。
 そういう話に強い関心を持ったり、すばらしいと思ったり、心強さを覚えたりするよりも、まずそういう懸念が頭に浮かんでくるという風情であるのは、この方は恐らくそれまで、そのような奇跡を必要とせぬほど、比較的恵まれたエリートコースを歩んで来られたからであろうと思います。そこが私などのように、いつもフライパンの上で炙られているような、せっぱつまった気持ちで生きてきた人間の感じ方と、違いが生じるのはきわめて自然なことで、どちらが正しいということではないと思うのです。
 まあ、そういう隅田さんの懸念が当てはまるような誤解をする人もないとは言えないでしょうが、私自身にとりましては、この話は心のもっと深いところで私を元気づけ鼓舞してくれる話なのであります。
 そのかわり隅田隆太郎氏はいたって常識豊かな方なので、その分むしろつきあいやすい方でありましたが、須賀院先生は、むしろ隆太郎氏のお父さんの隅田武彦氏の考え方や信心ぶりに、何もかもがよく似ておられたように思います。
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今の人は今の人なりに生きていけば手を差しのべてもらえる
 隅田武彦氏は長年ご本部の金光学園の園長をされていた方で、教内的にも教外的にも実に大きな功績を残された方であります。奈良県の五条教会で入信され、本県にも縁の深い方なのですが、その熱烈な信心ぶりはつとに有名で、転勤のたびに各地の教会に日参され、各教会のためにも尽くされました。
 そんな中で戦時中、今の科学繊維のはしりであるスフの製造法を発明され、物不足の時代に多大の貢献をされて、後に毎日工業技術賞なども受けられました。大学の研究室でも、研究に行き詰まると人目もかまわず大祓をあげてお祈りをなさったそうです。
 金光学園の園長として招かれたとき、最初は繊維会社の重役と東京の大学の教授とを兼ねておられたのですが、それではどちらもおろそかになってしまうということで、東京での役職を全部なげうって金光に移住され、本部当局をあわてさせました。東京での役職に匹敵するような、そんな給料はとても出せないと当局が思われたのも無理はありません。しかし隅田さんはそんなことはまったく意に介されませんでした。無私無慾の人でありました。それでも不思議と経済的にも立ち行く道がひらけたというような話を、「信心生活十六年」という本と、その二十年後に書き改められた「信心生活三十六年」とに書き残しておられます。
 私はその隅田博士が工業技術賞を受けられた時の新聞記事をリアルタイムで読んだ記憶があります。また、京都の学者の列伝を連載したある地方新聞の記事の中で、隅田さんが取り上げられているのをたまたま目にしたこともありました。「教授の地位をなげうって金光教の学園長になった。変り者である」というようなことが書いてあったところだけを、それを読んでから五十年経った今も覚えています。
 須賀院先生にはその後一度だけ、修徳殿に入殿(本部の研修行事に参加すること)したとき謦咳に接したことがありました。須賀院先生といい、隅田武彦氏といい、飛び抜けた信念と実践力の持ち主であられましたが、自分が同じようにできるか、したいかとなると、そういうタイプの信心は私にはもう無理だと思います。かといって合理主義的思考法の信心だけでも、私は助かりそうにありません。
 いわゆる近代的自我というのでしょうか、いかにけち臭い自我であっても、いったん身についてしまったものを今更捨て去るのは無理だと思いますので、そんな自分でも、それなりにおかげが受けられる道を探らざるを得ないのであります。
 そんなちっぽけな自分でも大切にし、自分にできるだけ正直に生きようとする中で、なんとか救われたいと、お役にも立ちたいと、あつかましくも願い続け、ある程度助けられてきていると思うところを、いつも聴いていただいているわけです。
 要するに、昔の人たちの生き方はそのまま真似ることはできなくても、今の人たちは今の人たちの生き方で神様を杖に一生懸命生きていくならば、いつの時代でも、神様は手を差しのべてくださると言いたいのであります。
 今回は、須賀院義雄先生のご帰幽の報に接したことを機会に、一度は皆様にも伝えたいと思っていた話を中心に、聴いていただきました。
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談話室より
坊っちゃん(男36歳) H..21.5.12

今回は、『奇跡』という言葉がお話の中にありましたので、それをテーマに少し書いてみたいと思います。

『奇跡』と聞くと、「そんな心霊現象みたいなことがあるか!」と、たちまち拒否反応を示す方が一般的には多いだろうと思います。
私も、いわゆる「いかにもこれはちょっとな~…」っていうようなものは好きではありませんが、世の中には、やはり死んでいてもおかしくない状況で「奇跡的に命が助かった!」っていうようなことがありますから、一概に『奇跡』的なことを否定はできないなと思っています。

車を運転する者としましては、いくら安全運転を心掛けていましても、日常やはり、冷やっ! とする場面があります。そんなとき、「あ~、助かったぁ~。おかげ頂いたなぁ~」と感謝をし、「今の『冷やっ!』がなかったら、もしかしたら、後々大きな事故を起こしていたかもしれないな」と、何かの気づきを頂いたと思って、より一層気を引き締めて運転するようになります。

そういう意味でも、いつ事件や事故に遭遇してもおかしくない私たちの生活において、事故を起こさずに運転させてもらっていたり、事件や事故に巻き込まれたりということなく、過ごさせて頂けているということ自体がもう奇跡なのかもしれません。

「奇跡なんて信じるものか!」「神様なんて信じるものか!」みたいな感じで、『無神論者』を表明しておられる方々もおられますが、それはそれでその方々のお考えなので否定もしませんが、そんな方々でも、交通安全のお守りを持っていたり、お正月には神社に初詣に行っていたりって光景が、日本には当たり前にありますから、何やかんや言いながらでも、みなさん『神頼み』なんですよね(笑)。

これまでの人生の中で、一般的な意味合いでの「うわっ! これは奇跡だ!」的な経験が、自分にあったのか、なかったのか、と考えたとき、今パッと思いつかないのですが、最近は、今この世に生きている、生を頂いているということが、ほんと奇跡だなぁと思います。自分の命に辿り着くまでに、数え切れない程の人数の先祖から、命のリレー、命のバトンを受け継いできたということですから奇跡としか言いようがありません。その数え切れない程の人数の先祖の組み合わせ(つがい・夫婦)が一人でも違っていたら、私も今この世に生まれることなく、この感想も書いていなかったんでしょうね。

そんな奇跡的な命に、私たちはどんな軌跡を刻んでいくのでしょうか?

最近、そんなことを思います。


教会長より

たしかに、奇跡の真っ只中に生かされている自分を自覚し、起ること全てに感謝の心を持つことが信仰の基本なのですが、ちょっと苦労があるとすぐそのことを忘れ勝ちですね。
私は 厚かましくも「森羅万象奇跡の只中にあって、さらなる奇跡をお授けください」と時々祈ることがあります。
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