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金光教高田教会、我が信心を語る
10 私の神様を語る
ー神様を神様と立て仰ぐー
大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。
もくじ
▲ 「いかにしたら生きた神様に出会えるのか」ということが、昨年からの一貫したテーマである
▲ 生きた神様に出会うすべについては、いろいろな言い方が成り立つ。
▲ 「めざましいおかげ」によって、「いつもあるおかげ」をますます強く自覚できるようになる
▲ 信心の土台になるのはまず感謝の心である
▲ つらいときにはなおさら、喜ぶことに力を入れたい。日常生活に感謝し、日常生活を大切にしたい
▲ ここが一番いいところ。今をおいて幸せはない
▲ 感謝の心は、ものを大切にするということにもつながる
▲ 難儀や困難そのものさえ、もっともっと喜べるようになりたい
▲ 感謝の心が深まるほど神様を大切に思う気持ちも強くなる
▲ 教祖は、信奉者の生活や行動に枠をはめたり、何かを無理強いするようなことは一切なかった
▲ 「吊ったのれんにもたれる心」で生きるのが本質的な意味で神様を一番にすえること
▲ これからも本教の教会・教団は信奉者の真に道を思う真心と情熱のみによって支えられていく
平成二十年七月六日 大阪府第二教会連合会にて
「いかにしたら生きた神様に出会えるのか」ということが、 昨年からの一貫したテーマである
奈良県教会連合会の地域内で御用させていただいております角埜であります。昨年のテーマは「神様と出会いたい」ということで、私自身も第六連合会で話をさせていただきました。
 今年度のテーマはそこから更に進んで、「めいめいがせっかく出会ったありがたい神様を自分の心の中だけにしまうのではなく、どんどん外へ語っていってほしい」との願いをもって「私の神様を語る」というふうに、講師会などを経て設定されました。そして「神様を神様と立て仰ぐ」というサブテーマもつけられました。
 ところがよくよく考えてみますと、このサブテーマはまだ去年のテーマをひきずったままと言いますか、去年のテーマから導き出されてきたものであるということができます。
 このお道で神様と出会うということで一番大切なことは、「生きた神を信心せよ」と言われるように、神様を「生きた神様」として捉え、生きた神様に出会い、生きた神様と共に生きようとすることである、ということは講師の先生方やセンターの先生方の誰しもが認めるところでありました。そして、そのように生きた神様と出会い、「私の神様」を生きた神様として輝かせていくことができるためにはどうすべきなのか、ということが求められ、「神様を神様と立て仰ぐ姿勢が必要である」という、このサブテーマが導き出されてきたわけです。
 つまり、単に「神様に出会う」と言うよりも、「生きた神様に出会う」としたほうが、さらに適切であり、「いかにしたら生きた神様に出会えるのか」ということが、昨年からの一貫したテーマであると言えると思うのであります。
 私自身は「生きた神様に出会う」ということはとても重要なテーマだと思いますので、このように形を変えて何度蒸し返されても、一向に差し支えないと考えております。むしろ、これはどこまでも求め続けずにおれない一生のテーマであるとさえ考えます。教会の御用の場でもつねに、「参拝の氏子が、充実感と安らぎを得て教会を出させていただきますよう、日々の生活の中で生きた神様のお働きを感得させて頂きますよう」ということを願い続けてまいりました。
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生きた神様に出会うすべについては、いろいろな言い方が成り立つ
 したがって、そのサブテーマが「神様を神様と立て仰ぐ」ということになった成りゆきにも異存はないのでありますが、しかしそれが生きた神様に出会うために必要なことがらのすべてかといえば、もちろんそれだけではありません。と言うか、それだけで全てを言い尽くせるものではありません。どう言うてみてもそれだけでは足りないという気がしてしまうのです。
 昨年私自身が話をさせていただいたのは、「神様に出会うためにまず大切なのは『神様を求める心』である」という話でした。この言い方もまた、かなりあいまいでありまして、結局私どもにできるのは、いろんな風に言うてみる、ということだけだという気がするのであります。
 そのようにして私なりに神様を求めてきまして、大切なのはやはり「神様に一心にすがり任せる心」と「感謝の心」であろうと思っております。そして、そこから更に生まれてくるのが、「神様を大切に思う心」だと思っていますので、その「神様を大切に思う心」というのが「神様を神様と立て仰ぐ」心と一致するということになるかと思います。
 私としましては、単にそのサブテーマだけに話をしぼるというのではなく、今年は毎年続けられてきた共励会シリーズの最後の年でもありますので、そうした、他の言い方のできることにも目を配りながら話をさせていただきたいと存じます。
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「めざましいおかげ」によって、「いつもあるおかげ」をますます強く自覚できるようになる
 私の場合は、神様を求めるということをかれこれ五十年続けてきたわけで、おかげで多少の手応えはいただいておりますが、しかしそれとて、まだまだ不確かな頼りない手応えに過ぎません。教会に育ちながら、自分がどう生き、どう御用していけばいいのかわからぬ中を、ただただ神様に一心にすがり、神様に問いかけ続けて、あっという間に五十年が経ってしまいました。
 いまだに悩み多き人生ではありますが、それであっても、五十年前と比べてみましたら、夢のような生活を送らせていただいております。また、どれほど頼りない信心ではありましても、求め続けたという事実だけは確かなものとして、心身に刻みつけられております。
 また、何も奇跡的なめざましいおかげだけが、生きた神様のお働きだとは思いませんが、ごくたまに授けていただく「めざましいおかげ」によって、「いつもあるおかげ」の有難さをますます強く自覚させていただくことができるようになりました。
 そういう体験についてのいくつかは、ホームページに掲載した話の中で触れさせていただいておりますが、今日のところは控えさせていただきます(そういう体験を、こんなことがありましたあんなこともありましたと、安易にちょこちょこっと列挙するということが、どうも私にはできないのです)。
 「生きた神を信心する」とは、信心して神様の生きたお働きを実感させてもらうことによって、森羅万象全てが奇跡であり、時々刻々神様がお働きくだされてあるとの自覚を深めていくことでもあります。そういうことでもなければ、なかなか「いつもあるおかげ」への感謝の念が生まれにくいのであります。
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信心の土台になるのはまず感謝の心である
 しかしこれも「めざましいおかげ」が先か、感謝が先かということはどちらとも言えないところがあります。まず感謝の念を持つということが「めざましいおかげ」につながることも多いのです。順序としては、有難いから礼を言うというのが普通なのですが、礼を言うから有難いことになる、ということも十分有りうるのです。だからこそ、信心の土台になるのはまず感謝の心だとも言われるのです。
 ですから、まず感謝ということを入り口にして信心をはじめるという入り方もあると思うのです。特に、苦しいときの神頼みと言われるような、さしせまった危機意識や悩みを持たない人が、生きた神様に出会うためのよき入り口になり得ると思います。要するに、神様に出会うための入り口は、いくつもあるということなのです。神様に出会うためにいちばん大切なのは「感謝の心」であるという言い方もできるのであります。
 ある方が(この方は教外の方ですが)、宇宙に気に入られ宇宙を味方につける一番の方法は、「ありがとう」をいっぱい言うことだと言っておられます。人間にとって都合のよいと思うことも悪いと思うことも、大きく見ればすべて善きことの実現のためにあるのだから、起こりくること全てに感謝することが宇宙の意志にかない、少しでも不平不足に思うことは、それだけ宇宙を敵にまわすことになるそうなのです。
 喜ぶ心はさらなる喜びを生み、不平不足の心はさらなる不幸を呼ぶ、という教えそのものは別に目新しいものではなく、私どももつねに教えられていることではありますが、私どもが普段「天地」とか「神様」と言い習わしているところを、「宇宙」という言い方をしてみることで、教えがまた新鮮に響くから不思議です。「神様の思し召しにかなう」と言うよりも「宇宙に気に入られる」と言う方がリアルに響くことがあります。「神様」ということがもう一つピンとこない人でも、こういう表現で言われたら「わかる気がする」ということもあるのではないでしょうか
 もちろん、この場合の「宇宙」というのは、科学者が研究対象にしているような、単なる物体の広がりとしての宇宙ではなくして、心を持った、意志を持った、神格を持った存在としての宇宙であります。私どもが「天地」と呼ぶのと同じ感覚だろうと思います。
 とにかく少しでも「わかる気がする」と思ったら、人がいいということはやってみることです。こういう口車には乗ってみよと言いたいのです。
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つらいときにはなおさら、喜ぶことに力を入れたい。日常生活に感謝し、日常生活を大切にしたい
 ですから私自身も、こういう言葉に元気づけられて、なお一層喜ぶことに力を注いでおります。つらい苦しい時にはなおさら、喜ぶことに力を入れております。あらゆるところに喜びを見つけていこうとしております。かかえる問題が深刻であればあるほど、そうさせてもらわねばと思います。また、日常生活の中に、もっともっといろんな喜びを見つけていきたいと思います。
 と申しますのも、日々祈る中味がいかに深刻であっても、そこにいつもあるのはごく普通の日常生活です。その日常生活が、昔に比べたらはるかに恵まれた環境で、極めて快適に御用させていただいているのです。これといって痛いところもかゆいところもありません。かゆいのもなかなかつらいもので、十年ほど前にストレス性の湿疹で生まれてはじめて二週間入院したことがありますが、それも今は比較的安定しています。
 食べるものも三度三度いつもおいしいのです。朝食を食べたら、もう次の昼食のことを考えるのが楽しみです。それも格別美食を追い求めているわけではありません。ごくありふれた、どちらかといえば安く手に入る物ばかりです。牛肉類はそうはいきませんが、なるたけ国産のものを食べるようにはしています。
 今のところは一人暮しですので、料理は手の込んだことはいっさいできません。皆さんの食生活と比べたら、いたってシンプルなものばかりです。それも一日に一回するかしないかです。それでも、ある時期、年寄りの食事の用意をしていたことがあったので、自分一人が食べるだけということはなんと楽なことかと思います。とうてい人様に振舞えるようなものではありませんが、たまに泊まりに来た孫に食べさせるくらいのことはできます。小さい頃からそうだったので、今でも、からかい半分に「祖父の味」だといって、男の料理であっても、格別不思議がりもせずに食べてくれます。
 大量に作って何回にも分けて食べます。カレーならルー一箱で三回半、具沢山の味噌汁なら六七回、何回同じものを食べても、そのたびにおいしいと思います。栄養のバランスには気を配っているつもりです。ある程度、サプリメントの世話にもなっております。夏場は腐らせないように、早め早めに冷蔵します。
 独り者は既製品も重宝します。揚げ物や刺身はちょっと遅めにスーパーに行けば半額で買えます。やきそばは、フライパンをよごさない湯きり型が独り者には有難いです。
 最近の値上がりラッシュには、つらい思いをしておられる方々もおられましょう。その種のやきそばの底値がこれまで六十八円であったのが、最近八十八円に値上がりしました。これからまだまだ上がるかもしれません。少々こたえますが、それでも、花の都パリに住む日本人が、和食が恋しくなってスーパーで「UFO」を手に入れようとしたら、六百円近く取られたと聞きます。そんな高級品を八十八円で食べられるのだと思えば、有難いと思うことにしています。私は「UFO」よりも「一平ちゃん」の方が口に合いますが…。
 特に果物の品質は日本が世界一だそうで、私たちがごく普通に食べているリンゴでも、ロシアでは一個千円ぐらいするそうです。それでも、ロシアのこの頃羽振りのいい人たちは、喜んで買うそうです。
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ここが一番いいところ。今をおいて幸せはない
 食事のことはこれくらいにするとしまして、日々只今、居らしてもらう時と所をも、自分への「おあてがい」として大切に思わしてもらっています。大抵は教会に居らしてもらうのですが、格別どこへ行きたいとも思いません。多分これからも国内から一歩も出ることはないでしょうが、海外旅行のできる人をうらやましいとも思いません。どこにいてもつねに「ここが一番いいところ。今をおいて幸せはない」と思うことにしてきました。
 毎日歩かしてもらう川沿いの桜並木を含む通り道が、この世で私にあてがわれた自然との触れ合いの一番の窓口です。通り道の前の家の軒先に植えられた花々から、堤防の雑草にいたるまで、四季折々の変化を楽しませてくれます。そこだけでも知り尽くすことのできない豊かさを感じます。いつか名前だけでも調べてみたいと思いつつ、ほとんど知らないままで来ている草花ばかりです。そうしたもの全てに感謝の気持ちで接したいと思っています。
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感謝の心は、ものを大切にするということにもつながる
 そして、そういう喜ぶ心は、自ずとものを大切にするということにもつながっていきます。そのようにしつけられてもいます。「もったいない」という言葉がはやる以前から、我々にはその言葉が身についています。空箱ひとつでも無造作に捨てることはありません。できるだけ活かそうとします。
 私も物置きには、きれいでしっかりした箱はできるだけ残すようにしています。住宅事情によっては、なかなかそんなスペースがとれないという人もあるでしょう。残しても結局はいらなくて捨ててしまうことになると言う人もいます。確かに、そんなにしょっちゅう役に立つというものではありませんが、それでも時々は役に立つことがあるのです。
 一月ほど前のことです。ある品物を郵便小包で送ろうとして、積み上げてある箱の中から、それにいちばん適した箱を探すのに、上がくずれないようにそろっと抜き出して、いろいろ入れてみるのですが、なかなかうまくいきません。あれこれ試した末、とうとうピッタリのものを見つけだしたときには、本当に嬉しく思いました。残しておいた甲斐があったと思いました。
 その時ふと思いついたんです。いつも昼食時に聴いているラジオの番組で、週に一回「ちっさい幸せのコーナー」というのがありまして、日常生活の中でふと「あ~幸せやな~」と思った体験を募集しているのです。今の気持ちはあのコーナーにピッタリではないか、しかも「大賞」を狙えるのではないかと思ったんです。そんな話が幾つか紹介される中で一つだけ、大げさですが「大賞」として五千円分の商品券が当たるのです。
 それで早速番組に応募のメールをしました。「物置きの隅に、捨てずに積み上げておいた空箱の中から、送りたい小包にピッタリの箱を選び出せたとき、あ~幸せ」というような文面でした。いつも最後に「あ~幸せ」がつくんです。
 そして放送当日、食事しながら聴いていましたら、四つか五つ取り上げられた話の最後に私のが出てきました。どれを大賞に選ぶかとなったとき、決め手になりましたのが、普通なら捨ててしまう箱を保存してある努力を買う、ということで私の話が選ばれ、商品券を獲得することとなりました。
 ちなみに、その次の週の大賞は、好きなケーキを買いに行った人が、売り切れてしまってすごすご帰ろうとすると、呼び止められ、試作品ですがといって別のケーキを無料でくれた、あ~幸せといった内容でした。
 五千円はたいした額ではないかもしれませんが、それでも、こういう出来事が気持ちをずいぶん元気にしてくれるのです。喜びがさらなる喜びを生んだという構図にもなっています。そのことだけではなく、この一カ月程だけを振り返ってみましても、生きた神様の働きを実感できるめざましい材料とまでは行かぬまでも、ああよかった、嬉しいな有難いなと思うことは、指折り数えれば七つ以上は出てくるのです。そんなのを寄せ集めると、柔道にたとえれば、「技有り」や 「効果」を合わせて「一本」といった感じでしょうか。
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難儀や困難そのものさえ、もっともっと喜べるようになりたい
 今は更に、難儀や困難そのものさえ、もっともっと喜べるようになりたいと思っています。今日も元気で悩ましてもらいましたとお礼を言おう、いつも嬉しく有難く、元気な心で大きな困難に立ち向かわしてもらいたい、元気に悩ましてもらいたいと努めているところであります。
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感謝の心が深まるほど神様を大切に思う気持ちも強くなる
そして、そのように感謝の心が深まれば深まるほど、神様を大切に思う気持ちも強くなります
 共通の講義案を執筆してくださった方が次のように書いておられます。

「『私の神様』を『生きた神様』として輝かせていくには、神様を神様と立て仰ぐ姿勢が必要である」
「神様を神様と立て仰ぐとは、自分の心が何事にも神様が一番であるという思いを持ち、行動に現わしていくことである。実際の実践方法としては、参拝、取次、祈念、ご用を通じて何事にも神様に心を向けながら取り組んでいくことが必要である」
 
 ここにおいでの皆様はともかく、信心の初歩の人に最初からこのような気持ちになれと言っても、なかなかなれるものではないかもしれません。それでも、段階を踏み、時間をかけて神様を求めていくうちに、いつのまにかそのような気持ちにもならせていただけるようであります。そうならせていただくことで、ますます幸せなことにならせてもらえるのであります。
 私方の教会が、地域に百二十年近く存続し得たのは、ひとえにそのような信者さん達に支えられてのことであると思い、そういう人々なくしては、これからも教会の存続発展はあり得ないと考えております
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教祖は、信奉者の生活や行動に枠をはめたり、何かを無理強いするようなことは一切なかった
 このように「神様を大切にする」、「神様が一番である」と言いましても、有難いことに教祖様は、我々信奉者の生活や行動に何か枠をはめようとしたり、何かを無理強いするようなことは一切なされませんでした。
 世界の宗教の中には、たとえ仕事を中断してでも、一日に何度も礼拝を行なうことを義務づけたり、宗教的タブーや戒律を設けたり、一定額の献金を義務づけたりする宗教があります。今でもそれらを忠実に守る人たちが多いのです。その人たちにとって、神仏を神仏と立て仰ぐということはそういうことなんです。
 ところが、戒律などは、どうも日本人の体質には合わないようで、カトリックのある外人神父さんも指摘したように、日本に入って来たあらゆる宗教の戒律はみな骨抜きにされてしまいました。儒教も仏教もみなそうです。それでも、金光教祖様のように、自由なとらわれのない信仰を説いた宗教は見当たらないように思います。献金を強いたり、熱心にすすめたりする教団も多いようです。
 教祖様は、神様のお社は氏子の食い余りでしつらえよと言われ、忙しいときにゆっくり拝んでいては仕事の差し支えになると言われ、遠方から度々費用をかけて参るには及ばないと言われ、何事も無理強いすることをお嫌いになりました。どこまでも参拝者の自由意志と「まごころ」を尊重されました。そういう自由さの中からかえって、本当に真面目でひたむきな信心も生まれてくるように思うのです。
 私方の教会でも、ごく少数ながら日参をなさる方がありますが、その方たちは誰に強いられたわけでもなく、自分からそうせずにおれなくてお参りして来られるのであります。平日の大祭日の参拝や御用でも、仕事を休んでご用のできる人もあれば、それぞれの事情でそれのできない人もあります。それができるということは有難いことで、そういう人が増えてほしいとは思いますが、できないからといって、神様を第一にしていないと責められることもありません。
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「吊ったのれんにもたれる心」で生きるのが、本質的な意味で神様を一番にすえること
 ただ、本質的な意味で「何事も神様が一番」と考えて生きるのでなければ、人間の本当の助かりはないということは言えると思います。その一番端的で平易な表現及び実践方法は「何事もお願いしてさせていただく」ということでしょう。
 もう一つ、そういう生き方を裏から支える重要な教えがあると常々考えております。それは、「建てた柱はたおれることがあるからのう。吊ったのれんにもたれる心になっておかげを受けなさい」という教えです。
 これは、私どもが日頃、これがあるから安心、あれば安心だと思っているものが実はいつゆらぐかわからない、失うことになるかわからない頼りないものに過ぎない、ということを言うておられるのです。財産があるから、才能があるから、健康だから、子孫がいるから誰それがいてくれるから、国家社会が安定しているから、これで安心と言えるものは何一つないわけです。
 だからそれらは「吊ったのれん」だと思いなさいと言われるのです。吊ったのれんにもたれようとする人は誰もいません。結局もたれて安心なのは神様だけだということです。教祖はたとえ話の達人でありましたが、これなども最高傑作の一つだろうと思います。これと表裏一体の「金の杖をつけば曲がる。竹や木の杖をつけば折れる。神を杖につけばよい。神は、曲がりも折れも死にもなさらない」というのも大傑作です。
 私どもは、今恵まれてあること全てに対して深く深く感謝しなければならぬことはもちろんですが、それらがあるからといってゆめゆめ油断してはならず、つねにそれらを与えてくだされてある「もと」のみを頼るようにと言われるのです。そうすればよけいな心配をすることもいらないのです。
 ですから私は、いつも吊ったのれんにもたれる心で、神様のみを杖にしながら、固定観念を持たず、無理をせず、できるだけ自分に正直に、自分にできることを一生懸命やってきたつもりです。
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これからも本教の教会・教団は、信奉者の真に道を思う真心と情熱のみによって支えられていく
 自分に正直と申しましても、その正直な気持ちそのものが複雑で、簡単に割り切れるようなものではありませんので、そういうありのままの自分をみつめ続けながら、そういう心の立ち行きをも求めて、信心を続けさせていただき、教会での御用も続けさせていただいているわけであります。
 日々己の無力を思いしらされることばかりなのでありますが、残り少ない人生をも、真に人が助かり育つ教会及び教団が存続し発展していくために、微力ながらもっともっと貢献させてもらいたいと願わずにおれません。
 これから先もずっと、本教の個々の教会や教団が、教祖様がまさに願われたように、信奉者の真に道を思うまごころと、道を思う情熱のみによって、力強く支えられていくことを願って、私の話を終わらせていただきます。
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談話室より
坊っちゃん(男36歳) H.20.8.28

私たちはと言いますと、ふと、人から親切を受けたり、ありがたいなぁと思えるような言葉を掛けて頂けたりしたときには、自然に「ありがとう!」って言っていたり、その感謝の念というものは忘れることがなかったりします。そして、その親切な人のことは、「神様みたいな人だなぁ」とか「仏さんやで、あの人は」と、大事に思えたりします。

逆に、理不尽に怒られたり、腹を立てられたり、不愉快なことを言われたりして、心が傷つけられますと、腹が立って悔しくて悔しくてたまらないものです。そして、挙句の果て、ひどい場合には、「あんな奴死んでしまえ!」と思ったりもします。

それは、人間の感情として、ごく自然な営みであると言えばそうなのかもしれませんが、先生もおっしゃってますように、『難儀や困難そのものさえ、もっともっと喜べるようになりたい』と、私もそう思いますね。

とは、言うものの、私にはなかなかできなくて、相変わらず、いつも何やかんやと腹を立てているしだいです(笑)。それでも、落ち着きを取り戻したときぐらいは、せめて、反省したいなぁと思っています。『今日も元気で悩ましてもらいましたとお礼を言おう、いつも嬉しく有難く、元気な心で大きな困難に立ち向かわしてもらいたい、元気に悩ましてもらいたい』というところ、なるほどなぁと思いました。
 
昔、人生幸朗さん生恵幸子さんのボヤキ漫才では、「まぁ~みなさん、聞いて下さい! 腹立つことばっかりや!」と、いつもボヤいておられました。ほんと、生きていますと、そのように「誰かに聞いて下さい」と言いたくなるようなことが多いものです。
 
しかし、『「めざましいおかげ」が先か、感謝が先かということはどちらとも言えないところがあります。まず感謝の念を持つということが「めざましいおかげ」につながることも多いのです』と先生もおっしゃってますように、ほんと、順序云々よりも、何事にも『感謝の心』を持てるようになりたいなぁと思いますね。そう思えたら、生きていく上で、随分と腹を立てることも少なくなるだろうし、心穏やかでいられるような気がしますね。

日常、いろんなことを経験させて頂く中で、何気なく出会わせて頂く『神様』に、『感謝の心』を抱きながら、私もいつか、ラジオの『ちっさい幸せのコーナー』で、『めざましいおかげ!!』が頂けるように、がんばりたいと思います。

なんちゃって(笑)。

教会長より

元気に悩めるというのも、悩みや心配をそのまま祈りに切り替えることができるおかげで、そうなれるのだと思います。
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