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金光教高田教会、我が信心を語る
9 人類みな兄弟と言うけれど
大和高田市 宗教法人 金光教高田教会|祈り、救いを求め、自分に正直に生きる。
もくじ
▲ 「人類はみな兄弟である」という人間観を持ち続けるのがむつかしい
▲ 人は競い合わねばならぬにしても、同時に助け合わねば生きていけない
▲ 国によって行動原理が違うので、助け合うのが容易ではない
▲ いちばんわかっているつもりの国が、いちばんわかりにくい
▲ 二重の勘違いから謝罪外交
▲ 信心はあくまで個人の行動を省みるものである
▲ 結局心をゆるせるのは神様だけ?
▲ 人の役に立とうとするところに気持ちの力点を移すだけで心が明るくなる
▲ 助けを必要とする人々に実際に手をさしのべるのも、そう簡単ではない
▲ 無理なく続けられる奉仕として、公衆トイレの掃除をはじめた
▲ 顔をそむけて通りすぎるよりは、よほど気持ちがいい
▲ 自力だけでは人の役に立つこともでき難い
平成二十年五月十一日 奈良県 柳本教会にて
「人類はみな兄弟である」という人間観を持ち続けるのがむつかしい
 金光教祖様は「天(あめ )が下の者はみな、天地の神様の氏子である。天が下に他人はない」と言われています。これが信心する者の持たねばならぬ最も基本的な人間観であろうかと思います。この言い方を更に一般化するなら、「人類はみな兄弟である」ということになると思います。しかし、実際にこの人間観をつねに見失うことなしに持ち続けるということが、なかなか難しいのです。
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人は競い合わねばならぬにしても、同時に助け合わねば生きていけない
 といいますのも、同時に、人はつねに競い合わねばならないからです。人はお互い競い合って自分の居場所を確保しなければなりません。幼い頃から競い合って入学試験を受けねばならず、競い合って仕事に就いて、自分に必要な生活の糧を確保できるようにならなければなりません。それだけでもせいいっぱいで、つい他人のことなどかまっていられないような気になり勝ちであります。人を押し退け、人に勝たなければ生きられないような気になりがちであります。
 しかし、競い合うだけでも、人は生きていけないのです。助け合わねば生きていけません。近しいものほど助け合わねば生きていけません。どれだけ近しいものの力になり合えるか、近しいものと力を合わせられるかが、その人の生きる力になるのであります。
 そしてまた、人は等しく神の氏子であると言いましても、めいめいにとっての大切さの度合いには差があります。親子兄弟親族友人知人、自分に近しい者ほど大切にし合って当然であります。家族同士が力を合わせ、地域住民同士が力を合わせ、同じ職場の者同士が力を合わせ、同じ国民同士が力を合わせて、外部の集団と競い合わねばならないのです。
 それ故、例えば中国、朝鮮など東アジアの人々のように、家族親族間の結びつきがとりわけ強く、親類縁者しか信用しない、同族のみ助け合うという行き方も生まれてきます。が、しかし、それだけでよいかというと、もちろんそれだけであってはならないわけです。
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国によって行動原理が違うので、助け合うのが容易ではない
 これからは、限られた資源や食料をめぐって、国と国との競争がますますはげしくなりそうな気配です。熾烈な競争は、ともすると争いに発展しがちです。争うことなく、戦争に進むことなく共存共栄の道をさぐらねば、結局は共倒れになってしまうのは言うまでもありません。
 また、世界中の人間が力を合わせて対処しなければならぬ問題がますます増えてきました。環境破壊、地球温暖化、資源の枯渇などの問題です。しかし、歩調を揃えて協力し合うということはいまだに容易ではありません。
 世界中の人間が神の氏子だから、人間は結局みな同じなのだから、誠意をもって接すれば必ず気持ちが通じ合えると、安易に思い込むのも危険です。あてがはずれることも多いのです。国によっては、日本人とは全く異なる行動原理で動く人たちがいることを知っておいた方がいいと思います。その典型が、お隣の中国との関係です。
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いちばんわかっているつもりの国が、いちばんわかりにくい
 日本と中国との間柄がぎくしゃくしがちなのは、過去の不幸ないきさつがあったり、靖国問題があるからむつかしいのだというふうに多くの人が思い込んでいますが、それは枝葉末節のことにすぎません。ほんとうは行動原理がまったく違うからむつかしいらしいのです。古くから文字や文化を輸入し続けて、いちばんわかっているつもりの国が、実はいちばんわかりにくいのです。
 例えば、日本人にとっては、正直や率直さや謙虚ということが美徳と考えられていますが、彼の国の人々にとってはそうではありません。彼らが平気で嘘をついたり、こちらをはげしく責め立てたり、逆に自分たちの非は絶対に認めようとしないようにみえるのは、思った通りをそのまま口にしたり、人に弱みを見せたりすることが命取りになるような、きびしい環境に何千年も置かれてきた結果、身についた行動原理なのであります。
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二重の勘違いから謝罪外交
 もっとわかりにくいのは、彼らには「指桑罵槐(シソウバカイ)」という独特のかけひきの仕方が、顕著にあるらしいことです。桑の木を指さしてエンジュの木を罵るというやり方らしいのですが、優れた歴史学者で、そういう中国を知り尽くした岡田英弘さんの著書によりますと、特に外交を国内の勢力争いに利用するというやり方などにそれがよくあらわれるといいます。
 これまで日中間で摩擦が起きたことがらのすべてがそれだというのです。かの国の政治家たちは、ただ単に国内の勢力争いのために、本気で怒っていないことにも怒ったふりをしてみせるらしいのです。それが理解できないものですから、日本ばかりではなくアメリカも、その都度対応を誤って事態をよけいにこじらしてきたのだそうです。
 かの国にはこれから先ますます悩まされそうな予感がありますが、お互い持ちつ持たれつで生きていくしかない以上、そういう国民性、そういう行動様式なのだときちんと理解し、割り切って、それにふさわしく対処するしかないのです。
 いちばん愚かしい対応は、一九八二年にはじまったいわゆる謝罪外交と言われるものだそうです。宮沢喜一内閣のとき、もともと誤報がもとで教科書問題というものが起きて、まず日本のマスコミが騒ぎ立て、それに対して当時の中国政府が強く抗議をしてみせたのですが、日本政府は相手が本気で怒っていると勘違いし、「今後の教科書検定は近隣諸国の感情に配慮する」という談話を出してしまいました。こういう外交が、言わば、二重の勘違いから始まったのです。
 中国政府は政府と軍部の権力闘争の一手段として怒るふりをしてみせたに過ぎないのに、日本のほうから進んで首を差し出してきたものですから、日本という国は、強い態度に出ればいくらでも謝る国だという思わぬ発見をしました。それがその後の日中関係を大きく変えてしまったといいます。
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信心はあくまで個人の行動を省みるものである
 信心するものが心しなければならないのは、自分はいたらぬ人間ですという謙虚な気持ちとか、私はどんな罰を受けてもいたしかたない罪深い人間でございます、というような贖罪意識というものは、あくまで個人の領域での意識にとどめておくべきであって、それを集団の意識にまで持ち込んではならないということであります。
 自分の行ないについての反省と、国家集団の行動についての評価や反省は全く別ものです。信心とは、あくまで個人の、めいめい自身の行ないについてのみ深く真摯に省みる営みであって、一時唱えられたような「一億総懺悔」など、あってはならないことです。国家集団の歴史については、もっと冷静客観的に、多面的に、公平に評価されるべきものであると思います。個人ではなく国家集団のことになると、いくら真摯に反省しようとしても、真実に到達することが困難で、ついウソや偏った考えを信じ込まされた上で反省してしまうということになりやすいのです。
 敗戦によって私どもは、自分たちだけが間違っていたのだという負の歴史認識のみを持つよう洗脳されてしまいました。それがいまだに尾を引いて、無意識的にも外交姿勢にまで出てしまうのです。外交というものは、どんな国に対しても、あくまで冷徹対等(軍事で依存するアメリカを除いては)でなければ、現在の国際社会を生き抜くことがむつかしいのに、日本人だけが妙に内省的、遠慮がち、弱腰、卑屈です。それでかえって尊敬されないようなのです。あなどりを受けるようなのです。
 歴史の評価というものは大変むつかしいもので、全面肯定も全面否定もありえないことなのです。自国の歴史について行き過ぎた卑下否定をするくらいなら、まだ開き直る方がましかもしれません。中国など、一九五〇年代からチベットに対してもっとあくどい侵略と圧政を続けてきたのですが、あれほど世界中から非難されても(近頃やっと関心が集まるようになりました)平気なものです。
 そう言えば、日本よりもよほど恵まれない状態にあるように見える国の人々でも、自分の国に対してもっと誇りと愛情を持っているように見えます。なんのかんのといったって、日本はまだまだいろんな点で恵まれているようです。いわゆる「安全神話」だってまだまだ言い立てられるほどには崩壊していません。ひところ多くの日本人があこがれたフランスの人たちから見てさえ、日本は別世界のようにうつるそうです。それなのに多くの日本人が自国を恥じ、憎み、嫌うのは、一部マスコミの宣伝と戦後教育の成果なのか、それとも、もともと日本人は生真面目過ぎて、何につけ悲観的否定的批判的に物事をみないと心が落ち着かないのかもしれません。
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結局心をゆるせるのは神様だけ?
 つい話がそれて行ってしまいそうになります。「天が下に他人はない、人類はみな兄弟である」と言いましても、外国人とつきあうということはこれほどに難しいことだと言いたいのでありますが、同じ日本人同士でも、我々は誰とでも何もかも正直にさらけだし合えるわけではなく、弱みを簡単にさらけだし合えるわけでもなく、そうしていいともかぎりません。結局本当に正直に弱い自分をもさらけだし、心を許せるのは、神様に向かう時だけかもしれません。神様に嘘をついたり、虚勢を張ったりしても意味がないのですから…。
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人の役に立とうとするところに気持ちの力点を移すだけで心が明るくなる
 そして、このように人はさまざまに競い合わねばならず、またお互いに理解し合うことが困難であるにしましても、そんな中でなおかつ、信心するものは、最初に述べたような人間観をも失わずに持ち続けることが大切なのであろうと思います。
 いくら自分が大事、近しい人が大事だといいましても、競い合う中で同時に、自分さえよければよい、或いは自分の属する集団さえよければよいという気持ちを、どこかで克服していく部分がなければ、どこまでいっても心の休まることがなく、世の中全体、世界全体も立ち行かなくなるのであります。
 結局、同じ競い合うにしても、人はどれだけ人の役に立てるかを競うべきなのであろうと思います。気持ちの力点を、奪い合い押し退け合おうとするところから、なんとかして人の役に立とうとするところに移すべきなのであろうと思います。そうするだけでもずいぶん心が明るくなり、気持ちが前向きになれます。そしてそういう競争なら、いよいよのところ勝ち負けは問題にならないのです。助けを必要とする人々に、自然と手をさしのべる気持ちにもなれるのです。この世の中では、神様はそういう生き方になる修行を積まそうとしておられるように思うのであります。
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助けを必要とする人々に実際に手をさしのべるのも、そう簡単ではない
 しかし、せっかくそんな気持ちになれたとしても、それを実行に移さねば意味がありませんが、それとてそう簡単ではありません。
 そこで私方のような教会でも、少しなりとできるところから手をつけようと、以前からほんのささやかな取り組みはしているのであります。賽銭箱の横にもう一つ献金箱を置いて、寄付金専用にしています。一つ一つについて募金するのは大変なので、そこにプールしたお金であらゆる種類の義捐金や募金に対応できるようにしてあるのです。
 限りある大きさのパイを切り分けて差し出すのですから、おのずから優先順位というものがあります。原則として、教団で進めているタイやフィリピンやカンボジアへの「一食を捧げる運動」、本部から呼びかけのあった国内外の災害義捐金を優先させますが、時には、教団内の学校が甲子園に出たり、何かの全国大会に出たりした時の募金にも、そこから充当したりもします。このたびのミャンマーの災害についても、当然何らかの呼びかけがあるものと思われます。
 それ以外にも、最近、アフリカのある難民キャンプに対する支援要請の手紙が舞い込みました。発送元の頭文字をネットで調べてみますと、時々耳にするれっきとした組織です。ちゃんとホ-ムページもあります。
 そのホームページに載っているそこの女性職員の名前で(女優のKさんの手紙も添えて)、キャンプの人々の窮状をいろいろと訴えた上で、こうも書いてあるのです。
 三千円あれば、厳しい自然環境の中で必要不可欠な毛布が十枚買える、五千円あれば、調理器具セットが二家族分が買える、一万円あれば、健康診断にかかる費用二十五人分がまかなえる、三万円で、家族五、六人が身を寄せ合えるテント二張が買えるんだと…。
 これなどはなかなか悩ましい要請です。言わんとすることはわかる、でも、貯めた資金の中からそこまで手を広げる余裕があるかどうか…、という感じです。それなら自分のポケットマネーからでもそれを出せるかと言いますと、三千円あればそれだけのことができるとわかっていても、孫に三千円の小遣いをやるのは惜しくなくても、そういう募金に応じるのは、ためらってしまうような私なのであります。リクツを言えば何かとつけられるのです。
 もっと身近なこととして、教会には、いろんな事情をかかえて、直接金品を乞いに来る人が後を絶たず、そんな人たちへの対応には、長年ほんとに頭を悩まされてきました。
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無理なく続けられる奉仕として、公衆トイレの掃除をはじめた
 その話は、また別の機会にゆずるとしまして、そんな私でも無理なく続けられる社会奉仕を、最近一つ見つけました。体を使っての奉仕です。お金のからむ奉仕だけが奉仕ではありません。
 日頃肥満に悩まされまして、少しでもそれを緩和するため、数年前から歩くことをはじめました。郊外の川まで出て、桜並木に沿って往復4キロ余り歩くのです。途中に公園がありまして、そこの公衆トイレで大抵一度は小用を足します。
 公衆トイレは大抵どこでも汚いものと相場が決まっています。そこのトイレも例外ではありませんでした。とりわけ、扉を明け放った二つの大便所の汚れようはひどいものでした。それをいつも横目で見て通り過ぎていました。詰まった便器から外にまで水があふれ出して、足の踏み場もないようなこともありました。
 そのうちに、小用とはいえ、いつもその便所でお世話になりながら、ただ単に顔をそむけて通り過ぎるだけでいいのだろうか、という疑問、ないしはうしろめたさが頭をよぎるようになりました。しかしなかなか、自分でなんとかするというような行動に移すまでには至らないでいました。
 ところがあるとき、ある方が、便所掃除がいちばん幸運を呼び寄せるもとになるという話を、自分の実体験も交えて紹介しているのを読みました。その中には京都の大店や名刹のトイレの掃除は、そこの主人や一番エライ高僧の仕事になっているという話もありました。そうしないと店は繁盛しないし、高僧にしたら、そんなまたとない徳積みと修行の機会をを下っ端の僧にに譲るわけにいかないというのです。また同じ時期に、偶然テレビをつけましたら、お笑いタレントらしき人が、トイレの掃除をするようになってから仕事が舞い込んでくるようになった、と語っている場面が映ったのです。
 とにかく私はそうした話を素直に信じることにしました。そしてそういう仕事運や金運を呼び寄せたいという欲に背中を押されて、やっとそこの掃除に取りかかることにしたのであります。そういうところが我ながら、自分はごく普通の、ありきたりの、凡庸な気構えの人間なのだなあと思い知らされるところであります。しかし、救われねばならぬ大方の人々の精神のレベルはそんなものです。だからこそ、玉水教会初代の湯川安太郎先生も、欲と二人連れの方が信心がしやすい、と言うてくださってあるのであります。
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顔をそむけて通りすぎるよりは、よほど気持ちがいい
 そこで、用具入れから棒のついたたわしとはさみとを取り出し、便器の後ろにてんこ盛りになった大便の除去からはじめました。水洗の水を利用して、便器の内や外にこびりついた便を全部こすり取って流しました。もう一つの便器は、鎖を引っ張っても水が流れないので、水道から何度もひしゃくで水を汲んで流しました。何日経ってもそれが直らないので、通りがかりの者ですがと言って市役所に電話してみましたら、その日のうちに直っていました。水さえちゃんと流れてくれたら、最低限の掃除はできるのです。
 そうして掃除をしましても、新たに汚す人やゴミを捨てる人は後を絶たないのですが、最初の日ほど汚れることはなくなりました。ごみ箱がないので、タバコの吸殻や紙屑やジュースの缶や紙パックは、ビニール袋に入れて置いておくと、誰かが持っていってくれています。
 以後半年間、人一倍汚がりの私ではありましたが、さすがに便の始末だけは、割合平気でできるようにならせてもらいました。時には、どうしたらこんな念の入った汚しかたができるのかと思うような汚れかたをしていることもありますが、これはお隣が老人の憩いのための施設になっているので、まともにしゃがむこともできないような膝の痛みをかかえている人かもしれない、と思うことにしています。
 これで幸運が舞い込んだかどうかはまだ定かではないにしても、何かの恩返しか罪滅ぼしにはなるだろうと思っています。少なくとも、顔をそむけて通りすぎるよりは、よほど気持ちがいいのです。
 これからも歩き続けられるかぎり、そこの男便所だけは、自分の受け持ちとして引き受けさせてもらえれば有難いなあと思いますし、こういう形でなら、ごく自然に、無理せずに続けさせてもらえそうなのであります。
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自力だけでは人の役に立つこともでき難い
 結局この世におきましては、人を思いやる気持ちが強く、人の役に立つ人ほどお徳を頂くことができ、苦労の中にも幸せを得ることができるようであります。しかし、それがなかなか自分だけの力ではできがたいため、何かとちぐはぐになってくるのです。
 そして、ボランティアも大事でしょうが、人の役に立つのは、めいめいの仕事を通してということがまず第一でしょう。人の役に立たねば事業も商売も成り立たず、職を得ることもできず、生活が成り立ちません。それで誰しも、生活を成り立たせるためにも、人の役に立とうと必死なんですが、それがなかなか思う通りにことが運ばないのです。
 いつも買物に行くスーパーの手前に、三階建ての小さな貸しビルがあります。一つの階に一店舗が入る大きさで、そこを借りて何かの店を開くわけですが、その入れ代わりがとてもはげしいのです。何をやってもどの店も続かないのです。誰しも最初はうまくいくことを目論んで始めるのでしょうが、思惑通りにいかないのであります。近頃ではどの階もシャッターの閉まっていることの方が多くなってしまいました。そんなことはそこだけに限ったことではなく、町のあちこちで見かける光景です。
 こういうことは他人事ではなく、私自身がつねに直面している問題でもあります。私どもの場合は「死んだと思うて欲を放れて御用をせよ」と言われていますので、少し違うかも知れませんが、社会の要求にちゃんと応えることができているかどうかを、つねに厳しく問われ続けている、という点では同じことだという気がしております。
 休日になると、新聞には普段よりたくさんの広告が入ってきます。この前など、あまりに重いので計ってみましたら、一キログラムありました。配達する人はどうやって運んだのだろうと、他人事ながら気になります。そんな広告も、いつもは行き付けのスーパーの広告二、三枚だけを抜き取って(そういう点もごく普通の主婦感覚です)あとはほとんど見ずに処分してしまうのですが、それでも、無造作にそうしてしまうのではなくて、多くの人々の何かを訴えようとする、役に立とうとする必死の思いだけは、きちんと受けとめた上でそうしたいと思っています。
 きびしい世界情勢の中で、今年は何もかもが値上がりし、いちだんと苦しい生活を強いられることになるかもしれません。しかし、それをいたずらに嘆いたり心配したり恐れたりしてもはじまりません。信心して神様のお力添えを頂き、いつも嬉しく有難く元気な心で、この世での神様から課せられた修業を積ませていただいて、一心と辛抱と勇気をもって、あらゆる困難を乗り越えせてもらいたいと、つねに願い続けて、かつがつしのがして頂いておる次第であります。
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談話室より
 教会長より 

これまで寿司ネタとして日本人だけが珍重していた魚類の味を、世界中の人々も知るようになり、例えばマグロが手に入りにくくなってきたとのことです。
それにかぎらず、外国との食料や資源の奪い合いということが、いよいよ現実味をおびてきました。
このように、世界中の人間同士の生存競争が厳しくなればなるほど、「天が下に他人というものはなきものぞ」といった教えは、単なる飾りものになってしまい、忘れられがちであります。
今回は、こうした基本的な信仰理念の風化がどうやったらくいとめられるのか、きびしい日常の中で、他人のことなどかまっておれない、まず自分の食い扶持の確保が先決だ、といった気持ちとの折り合いを、どうつけていけばよいのか、といった問題に、自分としては、はじめて手をつけてみました。
と言えば聞こえがいいのでしょうが、私のはほとんどの場合、あまり豊富とは言えない話の材料が先にあって、その乏しい材料をあれこれとこねまわすうちに「こんな話になってしまった」というのが実情です。
つまりテーマらしきものは、後になってからようやく浮かび上がってくるのです。まずテーマを決めてから、おもむろにそれにふさわしい材料を選ぶというような、そんなユトリはないのです(時たま、定められたテーマについて話すことは求められますが…)。
今回も、この半年の間に読んだものの中で、岡田英弘さんの、日本人と中国人の行動原理のギャップについての話が、いちばん強く印象に残っていたので、この話をなんとか使えないものか、どうしたら信心の話に結びつけられるかと考えはじめたのが、こういう話になった発端であります。
いわゆる謝罪外交の生まれてしまった経緯について、似たような解釈はこれまでにも読んだことはあったのですが、「指桑罵槐(シソウバカイ)」の話をはじめとする岡田さんの諸々の解説によって、そのことははじめて明快な知識として私の中に定着したのでした。
政治的な話を取り上げる時は、立場をわきまえてよほど慎重に、偏らないようにと言われます。また、普通の信者さんは、そんな話はあまり聞きたがっていないとも思います。しかしそれでも、国の行く末は私自身の最大関心事の一つであることと、先に述べたような事情から、ついそうなってしまいました。
便所掃除の話も、せめて3年くらいは続けてからにしたかったのですが、動員せざるをえませんでした。

坊っちゃん(男35歳) H.20.5.22

私もまさに、このタイトルどおり、どうしても理解し合えない人間関係というのがあるなぁと常々思っています。
 
「相手の言わんとするところを理解しよう」とか、「理解してみようと努力しよう」とか、そういう姿勢がお互いになければ、どうしても「あ~、また何か言うとるわ」的に、はなっから話にならなかったりします。
 
まさに、先生のおっしゃってる『行動原理の違い』もそうでしょうし、また、「生きていく上での基本姿勢や考え方」があまりに違って、双方歩み寄りがないならば、永遠に理解し合うということがないのかもしれません。
 
『誠意をもって接すれば必ず気持ちが通じ合えると、安易に思い込むのも危険です』と、先生も書いておられましたが、ほんと、そう思いますね。悲しいかな、今の世の中、人の誠意に感謝するどころか、利用するだけ利用しようという奴らが増えすぎた感があるように思います。
 
「競争!競争!」と、人を押しのけ、蹴飛ばすことばかりにみんな一生懸命になりすぎているような気もします。
 
『同じ競う合うにしても、人はどれだけ人の役に立てるかを競うべきなのであろうと思います』という先生のお言葉。なるほどなぁ~と思いました。
 
先生が取り組んでいらっしゃる『公衆トイレの清掃』には感動いたしました。なかなかできるものではありません。私なんかは、仮に「小遣いやるから…」と言われても、とてもできません。でも、もしかしたら、「小遣い、千円…、二千円…、え~い!一万円!十万円!……」と上がっていけば、考えなくもないかな?…なんてね。現金なものです。(笑)
ま、それは冗談ですが、たぶん私にはできません。先生、スゴすぎます!
 
先生の真似はできませんが、『人の役に立つのは、めいめいの仕事を通してということがまず第一でしょう』と書かれていたことに、ホッとさせて頂きました。とりあえず、目の前の仕事を、ボチボチさせて頂こうと思います。

教会長より

便所掃除なんて、文中にもある通り、「欲と二人連れ」だとそれほど苦にはならないんです。それに、歩くついでだからこそ続けられるんです。桜のシーズンに、人目が多いので後でもう一度出直して来ようと思って帰っても、出直して来れたことは一度もありませんでした。
もともとこういうことは、人知れず実践するのがいいのであって、公表してしまっては値打ち半減ですよね。


T.Oさん(男 教会長 67歳) H. 21.7.1

中国の行動原理である、ご指摘の「指桑罵槐」については、私も岡田英弘氏の「妻も敵なり」で読んでをりました。かつての日本と中国との戦争については、渡部昇一氏による「紫禁城の黄昏」上下完訳本による監修出版(岩波文庫本は一番大事なところをスッポリと抜いてゐる)があり、「東条英機、歴史の証言」(祥伝社)があり、また、黄文雄氏の一連の著書があって、侵略戦争といふことは成り立たないことが明確になったと言へるのではないでせうか。
平和論については、既に貴師と脈通するものがあり、私にとって貴先生はとてもありがたいご存在です。さうとしても、GHQと左翼による相乗りの自虐史観がいまもなほ執拗に民心を捉へてをり、戦前の歴史を知らぬ者たちによって、自国の歴史への罪悪意識といふものが、却って増幅しているかに見える昨今の政治状況といふものは、慨嘆にたへません。特に中国に対して、いまの自民党政権でも、何とも弱腰、これが民主党政権になったらどうなることやら、靖国神社を否定して新たな国立の追悼施設建設をいよいよ推進していくことになりませう。
それにしても、桜並木に沿っての往復4キロの歩行、附随して公衆トイレの清掃御用、ありがたいことと拝します。鍵山秀三郎氏がいま注目されていますね。

教会長より

列挙された本を私はまだどれも読んでおりません。さすがよく勉強されていますね。そういえば、あの「きけわだつみの声」も、編集者の意図に添わないところは全部削除された、プロパガンダの書であったようですね。黄文雄氏の著書は、たまに本屋でパラパラと拾い読みをしますが、我々にとってとても有難い存在のように思えます。

教会長より 30.7.10
「9 人類みな兄弟というけれど」を掲載してもう10年になりますが、この話へのアクセス数が、今年の4月と6月に何故か他を大きく引き離してトップに来ました。昨今の世界情勢を反映してのことなのでしょうか。時間が経つとどういう世界情勢であったかがわからなくなりますので、一応記しておきますと、いちばん注目された出来事としては、6月12日に、トランプ氏と金氏の米朝会談というのがありましたね。
私自身久しぶりに読み返してみて、細かい点をやっと思い出したようなことですが、どういう問題意識からこの話にアクセスされたのか、そして、少しはその問いに応え得る内容であったのかどうか、知りたいところです。
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